華やかな世界の芸能界。近年でSNSに投稿した内容が”バズる”と認知と人気を獲得できる時代。称賛を浴びたのも束の間、一年後には姿を見ない事もしばしば。いわば、”幻”の世界だ。
目代雄介(めだいゆうすけ)さんは大学在学時に「準ミスコン」に選ばれたことをきっかけに芸能界へ。24歳の時に単身台湾に移り住みドラマ・CM・映画出演。加えて、通訳として活躍。
しかし、ようやく手にした順風満帆の生活を捨て日本に帰国。現在は「目代塾」講師として、次世代の俳優、モデルたちへの演技指導を行う。
生徒達に伝えているのは「広い世界を見てほしい」の想い。台湾での歩み、この先目指す場所とは――。
紹介者
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――青山学院大学2年生時に「準ミスター」に選ばれ、芸能活動をスタート。シンデレラストーリーのようですね(笑)
目代 まさかこんな人生を歩むとは思ってなくて(笑)
元々、サッカーをやりたくて青学を選びました。2年生のときサッカー部の先輩から「お前ミスコン出ろよ!」と半ば強制的に参加させられると準ミスターに(笑)。
スカウトの目に留まり、3年生時に今も所属している芸能事務所「アデッソ」から僕の芸能活動が始まりました。
――ある種のノリで人生が転換したと(笑)。突然の芸能界進出。最初は右往左往
されたのでは?
目代 始めはオーディション受けても、めちゃめちゃ緊張して帰宅するだけ。なにもできませんでした(笑)
それに「チャラチャラした世界」という印象もあり敬遠していました。絶対自分に向いてない業界だなと(笑)
――マイナスイメージを抱きながらも大学卒業後も芸能活動を継続。なにかきっかけがあったのでしょうか?
目代 ハリウッド式の演技レッスンを受けたことが大きな要因でした。
その人自身の個性を生かし、自分に嘘をつかず演技をする。「演技」と聞くと、取り繕う。そんなイメージがありませんか?等身大の自分を表現することが衝撃でした。
また、容姿に左右されず、練習を詰めば誰もが味のある表現ができる。鍛錬と結果が見える点がサッカーと似た要素を感じハマり始めたんです。
――24歳のときに芸能活動の舞台を台湾に移しました。異国の地での挑戦はいばらの道だったのでは?
目代 父が海外出張も多く、僕自身、英語が好きだったので海外意識は持っていました。
生活の保障も無く、3か月で結果を出さなければ帰国という条件。それでも「行きたい!」の一心。ですが、現実はそう甘くないですよね(笑)
海外モデルや俳優は宿舎が用意されているのですが、日本で実績がない僕は家探しから開始。仕事に関しても、お笑い系の仕事も積極的に行いました。
そんな状況でも、「今日も冒険だ!」と毎朝目覚めていました。カタコトの英語で見知らぬ人に話しかける。見るものすべてが驚きの連続。これだけでも価値があると噛みしめていました。
――デッドラインの3か月を過ぎる頃には出演オファーが届くように。生活を楽しむ傍ら、なにに注力したのでしょう?
目代 自分の武器を語学力と定め猛勉強しました。
語学学校にも通い、絶えずインプットとアウトプットを重ねる。次第に現場監督とコミュニケーションが取れるようになり、「日本人だけど、中国語もできるやつがいる」そう評価していただき、徐々にオファーが来ました。
――その後、芸能界のみならず通訳の仕事も始められました。業界問わず、語学力以外で人から求められたのはなぜでしょうか?
目代 そうですね…。まずひとつは人柄だと思います。いくら容姿を着飾っても、ひとりの人間。しっかりと挨拶する、会話する際の姿勢。人としての在り方を海外に行ったからと言って、見失わないようにしていました。
そして、これは目代塾の生徒にも伝えているのですが「芸能界以外の世界も見る」ことが可能性を広げたのかもしれません。
舞台の裏方業(セット、カメラマンなど)を経験したことでアジア合作映画の監督専属通訳をさせて頂きました。夜は地元民とサッカーをしていたことが転じて、中華民国サッカー協会での通訳も。
華やかな実績、飛びぬけたプロポーションを持つ彼らを追い越すためには、一見無駄に見えることを誰よりもする。そうすればスペシャルな存在になれると確信がありました。
――台湾生活が8年目になり、”食べていける生活”を手にしました。それにも関わらず、日本に帰国することを選択されました。
目代 生きるか死ぬかの状況を脱し、生活に困らない日々。その居心地や環境がいつしか恐怖に感じました。
周囲からは「映画、ドラマ、CM出演、それに通訳まで!すごいですね!」と称賛の言葉を掛けられても自分はすごくないとわかっている。
その中で思ったことが、「俺、社会人経験無いよな」でした。どこか、サラリーマン経験は必要っていうのがあったんです。33歳でサラリーマンをすることは勇気が必要でしたが、このタイミングだろうと決意しました。
――中国語を活かせる環境として都内にある企業に就職されました。サラリーマン生活いかがでしたか?
目代 正直な感想辛かったです(笑)。
電車、オフィスを見渡すとみんな目が死んでいる。「やりたくない」と呟き、”なにか”の恐怖に怯え、有無言わさぬ同調圧力。
サラリーマンとして働くのは「こういうことか」と感じ、心身ともに疲弊していきました。
――海外とは違う風習、社内政治が存在してそうです…。1年勤められ、古くから親交があった芸能事務所「アデッソ」に所属。2018年に「目代塾」を立ち上げられました。どういったことを掲げているのでしょうか?
目代 帰国時に「プレイングマネージャーとして働かない?」とオファーを頂いていました。
「台湾で培った演技力やメンタリティを若い子に伝えてほしい」この言葉が立ち上げの背景となり、僕自身も俳優を継続しながら、講師として活動しています。
生徒たちには「自分の頭で考え行動できる。その結果を自責にできる人を育てる」を指針にし、ひとりひとりに生きる力も伝えています。
――「個人の在り方」は日本と海外では違いがありますか?
目代 どちらが正しい、偉いはありませんがたしかにあります。
日本を見渡すと「会社、学校、親に言われて〇〇を始めました」、「国が悪い、社会構造のせいだ」と周囲に責任を投げる人も多い。そのため、自分で考え解決する力が欠けてしまいます。
特に芸能界は顕著に表れているかもしれません。マネージャーの方針、タレントイメージを最優先にする。タレントは守られた環境のため、自身からのしたいが生まれない。
一方、海外では俳優がなにをしたいかがはっきりと言える。所属事務所とタレントは良きパートナー。現場は自分ひとりで行くし、外部との対応も自身で行っています。
そのように、環境は整えながらも、自己裁量と責任を持ち合わせて行動する。そういうマインドの人を増やしたいです。
――ある意味、旧態依然とした業界をブレイクスルーし、自分を見つめ直してほしいと?
目代 その想いもあります。なにより、演技や表現をすることは自己の殻を破るのに充分な可能性を秘めています。
台湾の劇団には警察官、主婦、CEOなど、業種問わず様々な人が自分を変えるために来ていました。もちろん、彼らはプロを目指しているわけじゃない。
けれど、自分を解き放つことでそれぞれの環境に戻って活かす姿を目の当たりにしました。そのように目代塾も 自分を好きになれ、自分を持てる。そんな場にしたいですよね。
――現在はYOUTUBEに演技講座、言語習得動画も投稿なさっています。次々とチャレンジをする原動力はどこから生まれてくるのでしょう?
目代 生徒には過去の栄光を語るのではなく、僕が挑戦し失敗する姿も同時に見せたい。
物事、最初は誰もが下手くそ。失敗すれば人に笑われ、恥もかく。それをどう受け取って前に進むのか。劇的な上昇はありえず、緩やか且つ穏やかな成長曲線を描きますよね。
――セリフを噛む。動作を間違える。など、演技は失敗も多いのではと想像します。そして、これまでの数々のチャレンジをされてきました。目代さんの思う”失敗”とは?
目代 『失敗は成功の母』とありますが、良いものですよね。そう思った理由のひとつは語学学習。
とにかく外国の人達は失敗しても話し続けます(笑)。そして、改善して良くなる。この姿勢と感覚を学べたのは演技をする自分にも好影響でした。
演技の世界でも失敗と挑戦の光景を目に焼き付けてきました。竹中直人さん、藤原紀香さん等、名立たる俳優さんたちは演技が終わった瞬間にすごい悩んでいる。
周囲から見れば、「完璧じゃん…!」と思っても「違うんだよなぁ、もう一回トライしよう!」と常に殻から出ようとしている。
地位や名声にしがみつかず、好奇心に忠実に新たな事に挑んでいるんです。
――人生の主役は自分ひとり。時に、複数の役(仕事)をこなしていくのもありな時代ですよね。今後、目代さんはどのような人生を送って行かれるのでしょうか?
目代 まずは「目代塾」を活動の基盤として、今後も次世代の俳優、モデルを育てること。そのためにも今まで以上に業界、国籍問わずチャレンジしていく。
中長期的にはビジネスを立ち上げアジアや海外に発展させていきたい。その野望を達成したら、自分で映画出演しちゃったり(笑)
「自分に限界を決めず、耐えず挑戦と体験をする」今までの人生を振り返り、腹落ちした言葉。一度きりの人生なので、枠を設けることなく、誰もやっていないことがしたいです。