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情熱と出会いが人生を変える 陳彦夫

陳彦夫/チンゲンフ(30)1992年9月生まれ

東京国際大学出身。2015年台湾の軍隊入隊しながら小学校の生徒達にサッカーを教え始める。2017年台湾男子A代表通訳就任。2018年同女子A代表通訳。2019年ドイツのクラブ『VfB Speldorf1919e.V』GKコーチ。2020年7月長崎総合科学大附属高校GKコーチ就任。2022年4月~横浜FC小学生年代、慶應義塾ソッカー部の指導。2022年9月~サッカー台湾男子A代表GKコーチ就任

 

「情熱」と「人とのご縁」

 

 情熱を持って生き、人との出会いが人生をより豊かにしてくれる。これらによって今の僕は形成されました。

 

 現在、Jリーグクラブの小学生年代のスクールの指導をメインに、それまでは全国高校サッカー出場校やドイツでGKコーチ、台湾A代表(男女カテゴリー)で通訳の仕事にも携わってきました。

 

 幼少期は引っ込み思案な性格。決して人の上に立つタイプでもなければ、大学生になっても謙虚さや落ち着きのない学生。ましてや人からの評価や承認欲求に埋もれる時間を過ごしてきました。

 

 今年で30歳になり、人生の節目で感じたこと。これまでのチャレンジやその中での葛藤を共有することで「誰かの挑戦の後押しやお役に立てれば」そんな思いでこの記事を友人と書いています。

 

 これまで出会ってくれた方々へ、改めて私のこれまでと最大限の感謝を込めてーー。

 

裸の大将

 

 高校に入学しサッカー部に入部。根拠の無い自信に満ち溢れ、プライドが高い生徒。虚勢を張るだけの私に真の友人はいなかった。

 

 高校1年時の文集に「代表選手になる」と書き、2年時には「全国大会出場」と明記。

 

 プロ選手になれたわけでもなく、地区予選敗退で高校サッカーを終えるも、10年後に指導者としてこれらの夢を叶えるとは。

 

5か月間のテニス部員

 

 大学進学後もサッカーを続けようと考えるも、部員は500人弱が在籍することを知り、「レギュラーの座は無理だ…」と入部を断念。

 

 臆病なくせに「本気でなにかに打ち込みたい」そんな想いだけは強かった当時。

 

 テニス部は少人数が在籍していたため「頑張ればレギュラーになれるかもしれない」と思い、初心者ながら入部。しかし、そんな甘い考えで叶えられるわけもなく、わずか5か月でテニス部を退部。

 

「歌手になる」と思い込みはじめた「東京タワー事件」

 

  次は「好きな人の前ではまともに歌いたい」という理由でボイストレーニングに通い始めた。周囲から笑われ、時に冷たい視線を感じる事もあったが、どこか充実感があった。

 

 いつしか「俺はこれをやっている!」そんな優越感に浸り、うまく歌うことよりも、”何者か”になりたい自分がいた。

 

  ある日、『ライブに出てみない?』と講師の方からの誘いを頂いた。この一言で「プロになれるかもしれない」と勝手に妄想を膨らませた。

 

 東京タワーのふもとの特設ステージに200名程の観客が詰め寄せた。緊張で頭は真っ白。それでも一気に歌い上げた自分に酔いしれ、気付けば「歌手になる」と周囲の友人に爆弾発言。もちろん、歌手にはなることはなかった。

 

ライヴした際の様子

台湾での兵役生活

 

  気づけば、大学4年生。何も成し遂げていないこと焦りを感じている中、母国台湾での1年間の兵役生活を選択した。

 

 知人からの提案だった。無料の語学留学に加え、誰もできない経験ができる。そして、この挑戦は自分の弱さと向き合い大きな人生の転換期を迎えることになった。

 

 約1年半の期間を共にした隊の友人たちには多くの迷惑を掛けた。言葉が理解できず、度重なる私の指令無視。連帯責任として仲間全員立たされ、時に走らされ。挙句の果てには休暇も短くなる始末…。

 

 そんなある日、私は訓練中に暑さで倒れ、ふと目が覚めると病院のベッドの上だった。

 

自分を見つめる

 

 初めて自分の弱さを受け入れた瞬間だった。

 

 なにをやってもダメな自分が悔しくて涙を流した。色々な挑戦をしたが、その裏には「人から良く見られたい」という承認欲求が根底にあったと一人振り返った。

 

 誰に言われた訳じゃないのに「”何か”にならなければ…」という強迫観念。実態もハッキリとしない目標に向かうばかりに、自分の好きな事や何に情熱をかけられるのかさえもわからなかった。

 

 正直、この頃は好きな事に挑戦し、充実する仲間を見て羨ましくも、妬ましい瞬間もあった。

 

 ひとしきり泣いた後は、「必ず這い上がってみせる」という野心と、隊の仲間や家族、友人に対する感謝の気持ちが芽生えた。

 

兵役時代の様子

指導者の道へ

 

 そんな中、入隊前に通った語学学校で知り合ったドイツ人の友人デニスがサッカー指導者の道へと歩み出すきっかけをくれた。

 

 元々、台湾の小学校でサッカーを教えていたのだが、家庭の事情でドイツに帰国することに。その後釜として私を紹介してくれた。好きだったサッカーを教える。プレーヤーとしては秀でた結果が出せなかったが、新たな形で携われることにワクワクが止まらなかった。

 

 アットホームな雰囲気で迎え入れてくれた子ども達。「笑顔にしてくれたこの子たちのために頑張ろう」という気持ちが強かったのを覚えている。

 

 山奥の小学校でボランティアからサッカー指導者の道がスタートした。



出会いは新しい知見の獲得

 

 遠征に行ったり、サッカーの知識を徐々に身に着けていく。そうした日々を重ねていく中で、当時、台湾サッカー協会で従事する黒田和生(くろだかずお)先生と出会い、語学もままならない私を通訳兼アシスタントとして招いてくださった。

 

 後に黒田先生は台湾サッカー男子A代表監督に就任。その際にも『一緒に働かないか』と声をかけていただいた。それまでとは異なる業務内容やプレッシャーに何度も押しつぶされそうになったが、周囲の方々の協力のおかげでなんとかしがみついた。

 

 その後も男子A代表でギャリー・ホワイト氏、女子A代表では堀野博幸(ほりのひろゆき)氏の下でマネージャー、道具係、映像編集など新しい業務をさせて頂いた。

 

 なにをやってもダメだった自分に少しづつ、小さな成功体験が積み重なっていく。人間として強くなった実感があった。

 

黒田先生とのツーショット

順風満帆な時ほど落とし穴がある

 

 2018年8月、アジア競技大会で台湾女子代表はベスト4に輝き、台湾中が大いに賑わった。通訳兼、アシスタントとして携わっていたこともあり私自身も誇り高かった。

 

 あくる日、国内大手新聞で衝撃的な見出しが飾られていた。忘れもしない、その日は私の26歳の誕生日だった。

 

 「アジアベスト4の舞台裏・コーチングスタッフの無能さ」

 

  記事には選手とのコミュニケーション不足を指摘する私に対する批判の内容が書かれていた。真っ先に思ったのは堀野監督や選手たちへの申し訳ない気持ち。そして、自分の能力の低さを悔いた。

 

 『やっぱり自分はなにをやってもダメなんだ。指導者の道を辞めよう』とさえ思った。

 

 この時、台湾の友人と一緒で彼も自分事のように涙を流してくれた。もっと台湾サッカーに貢献したい気持ちもあったが、新たな環境で挑戦しようと再びデニスの紹介でサッカーの本場、ドイツで指導をすることを決断した。

 

給与2000円のスタート

 

 波乱の幕開けだった。紹介されたクラブは言語の問題で5日で解雇(笑)

 

 なんとか自宅から近いクラブチームを見つけて、ユースチームで月2000円の給料を頂きながらのスタート。台湾での挫折を払拭するためにも「好きなことだ。何でもやってやるぞ」というメンタリティだった。

 

 その後は大人カテゴリーでの指導と語学学校にも通い始め生活レベルまで話せるようになった。言語習得はスタッフ、選手間との距離も親密にさせる。台湾時代に痛感したことだったので特に力を入れた。

 

ドイツ編に関しては前回の記事があるのでこちらをお読みください!



ドイツ時代

 

誰と働くか

 

 1年半が経過し生活にも慣れだした矢先、コロナが猛威を振るい始めた。

 

 幸運にもいろいろなチームからオファーが届く中、長崎総合科学大学附属高校から御話を頂いた。

 

 全国大会常連校で、小嶺忠敏(こみねただとし)先生の下で働ける。大きなクラブや組織といったネームバリューも大切だが、「誰と一緒に働くか」に重きを置くようになっていた私にとって、またと無いチャンスだと感じた。

 

長崎総合科学大学附属高校にて

夢に全力であれ

 

 2020年7月に同校にGKコーチ就任。就任1年目こそ全国大会出場を逃したが、翌年度は達成することができた。

 

 小嶺先生は常々『選手たちは高校で一度しかない全国出場に本気で頑張っている。だからこそ、コーチ陣も本気で挑む必要がある、死ぬ気でやらなダメだ!』と仰っていた。

 

 この言葉どおり、選手たちは公式戦勝利後も時に30本~50本走り込むこともあった。我々も”指導者だから”と変に大人ぶることなく、本気で生徒にぶつかった。

 

 小嶺忠敏先生は2022年1月にご逝去されたが、選手たちと向き合う姿。指導力に加え、人間力を教えて頂いた。この学びをどう現在とこれからに活かせるかは自分に掛かっている。

 

同校選手たち

人はいつ後悔するのか

 

 これが今までの私の人生。

 

 箸にも棒にも掛からない学生時代は焦燥感だけが募るのを今でも覚えている。そして、どん底に陥った兵隊生活。どの挫折や後悔も私にとって必要な経験だった。

 

 情熱は自身の好きの中に隠れている。それは他人から貰うものではなく自分の内側から感じるもの。

 

 「これだ!」と思える物に出会い、少しでも行動をする。大なり小なり失敗はあるかもしれない。まだ30歳だが、自身の人生を振り返った時、行動した後悔よりも、アクションできなかったことを悔やむ。それはこの先の人生も同じだろう。

 

 ここからは説教臭くなるかも知れないが、私が本心で思っている事。中々行動に移せずにモヤモヤしている人に少しでも響けばと思う。

 

失敗=目標ー行動量

 

 「好きを仕事にする」と聞くと、様々な思いがあるかもしれない。けれど、一度きりの人生、その好きの道に少しの期間でも良いから進んでほしい。

 

 私の経験上だが、好きなものに打ち込むと情熱が生まれる。そこに自己成長と生きている実感がある。

 

 「そんなこと言っても失敗するのが嫌だ…」と思うなら、”失敗とはなにか”に目を向けてほしい。持つ目標によって、失敗の正体が違うハズだ。

 

 私で言えば大学時代のボイトレが良い例かもしれない。当初の目的は「好きな子の前で上手に歌うこと」

 

 それが数か月後に「プロになる」と目標設定した瞬間に”失敗の規模”が広がる。数多の人を引き付ける歌唱力。楽曲制作にライブの集客…etc

 

 掲げる目標や段階によって失敗の本質は変わる。まずは自分のしたいことを見極めてみよう。

 

すべての仕事を愛する

 

 もし、中々一歩を踏み出せないのであれば、その道の詳しい人に連絡をしてみるのはどうだろう?SNSを駆使すれば手段はいくつでもある。なにか助言をもらい次のステップに繋がるかも知れないし、”行動した”ことが自信にもなる。

 

 もちろん、仕事となれば社会や世界を変えるのだから、好きのレベルは常に磨かないといけない。時に気の乗らない行動や仕事もしなければならない。それも愛するのが大事だ。

 

 今となっては僕の好きな仕事の一つにお弁当発注がある。「俺が頼むことで選手たちが元気になる」そんなマインドの転換も時に必要だ。楽しいことばかりが仕事じゃない。

 

さいご

 

 昔から好きなサッカーを仕事にできたのは幸運だった。けれど、私が一番好きなのは”仲間と共に目標に向かって進むこと”。サッカーはその手段のひとつなのかもしれない。

 

 正直に言えば、私の指導力やサッカーIQはまだまだ低いと思う。でも、学ぶこと続けて、私は情熱や行動を武器に様々な場所を渡り歩いてきた。

 

 打算を取り払い、他者評価、承認欲求をなるべく捨てる。

 

 大事なことは好きなことに情熱を持って、真摯に向き合うこと。それが多少粗削りであっても、「こいつのここが好きだな」とご縁が舞い込んでくる。

 

 『好きなことだけじゃお金が…』って?もちろん、大切な要素ではあるが、お金ばかりを追っているのは寂しい。一度きりの人生、自分の好きに素直になって、謙虚に生きていこう。

 

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