障がい者に走る喜びを伝えたい
今回インタビューしたのはNPO法人シオヤレクリエーションクラブ(SRC)理事長の塩家吹雪(しおやふぶき)さん。
20代は陸上短距離選手として活躍。現役引退後は全盲ランナーの伴走者として、2004年に開催されたアテネパラリンピックに出場。その後、2009年に伴走者を引退。以降、指導者としてロンドンパラリンピックのコーチも務めた経歴の持ち主。
現在は同法人にて、障がい者の有無に関わらず、すべての子どもたちに走る事の楽しさを伝えている。
来る2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けた事業も展開中だ。
「僕みたいな人間は休みなんかいらないんです。1分1秒を生きることで、子どもたちの笑顔に繋がる。障がいがあろうが無かろうが、そんなもんは一切関係ない。そう思うんです」
どうやら、熱い男の匂いがするーーー。
両親の離婚。「なにかやらなきゃいけない」という焦り
振り返ると、楽しい小学生時代とは言えないのかもしれない。1年生の時に両親が離婚。母親は家を出て父親と弟の3人での生活が始まった。
今でこそ、「母子家庭」や「離婚」と耳にすることも多いが当時は稀。「離婚の原因はあなたにあるから、自分の名前をお札に書いて川に流しなさい」と、先生に言われたこともあったそうだ。
「両親の離婚の悲しさよりも、『なにかやらなきゃいけない』という意識が強くありました。小さい時から走る事は好きだったので、自ずと陸上の分野に方向性を定めていたかも知れないです」
バチッと心に来た恩師の言葉
中学校進学後、陸上部に入部。部活顧問の太田先生との出会いが衝撃的だった。
「生まれ育った環境に関係なく、スポーツは頑張った子が一番になれる。だから塩家君も陸上頑張りなさいよ」そう、塩家さんに言葉をかけた。
「これまでの大人と全く違いました。厳しい先生でしたが、熱意や愛情を持って接してくれて、差別もなかったです。今でも、海外遠征の前など、元気を貰いたいときに電話をかけたり、お会いしに行きます。間違いなく僕の人生をガラッと変えてくれた先生ですよ」
以降、休むことなく練習に励むと、着実にタイムを伸ばし都大会にも出場。先輩の勧めもあり、元水泳選手の北島康介さんも通った本郷高校に入学した。
19歳、陸上クラブチーム設立
しかし、高校時代は目立った成績を残すことはできなかった。卒業したら陸上は続けずに、手に職を付けようと専門学校に入学。ここでも新たな出会いが待っていた。
「入学式当日、隣の席に座った学生が、『埼玉県で陸上クラブチームを運営している』と言っていたんですね。その時、『そうか!べつに大学に行かなくても陸上できるんだ』と。すぐに学生時代の仲間を呼んで、自分が代表となり陸上クラブチームを設立しました」
立ち上げ後、数々のタイトルを獲得。怪我にも泣く時期があるも迎えた29歳。「いよいよ引退か」そう頭をよぎった矢先、いつものように練習場に向かうとある選手の走りに目がとまった。
視覚障がい者も全力で走る
「走りが綺麗な選手を見つけたんですよ。その隣では、手拍子で合図をしながら一緒に走っている人。思わず声をかけました。すると、『私は視覚障がいがあります』そう答えたんです」
選手の名は矢野繁樹さん。進行性の視覚障がいで、いずれ全盲になってしまう原因不明の難病。その隣で走っていたのは、伴走者(全盲走者の隣で走る人)で、補助として声をかけながら、コースの位置を教えているところだった。
「100mを11秒4で走ると言ったんですよ(笑)。驚きですよね。よくよく聞くと、アトランタパラリンピックでは4位。『是非、うちのチームに来てほしい』と勧誘して、2000年に矢野がチームに所属してくれました」
今から19年前の出来事。障がい者が健常者と共にスポーツをするのは皆無の時代。すると、「東京に障がい者を受け入れてくれるチームがある」と噂が広まり、日本全国から車いすや義足、義手など、様々な障がいの選手たちが、チームを変えて次々に入部。中には住むところを変えてまで来る選手もいた。
夢に見たJAPANのユニフォーム
噂を聞きつけ、シドニーパラリンピック全盲クラス100m4位の齋藤晃司さんが2001年に入部。彼は大学2年生のときにオートバイ事故で失明し、リハビリがきっかけで陸上競技を始めた。
所属後、何人か齋藤さんと伴走を試すも中々息が合わず。たまたま、塩家さんが伴走を務めたところ意気投合。
伴走者を始めて1か月後、齋藤さんから「塩家さん、カナダのエドモントンで開催される世界陸上で、100mのエキシビジョン、一緒に走ってくれないですか?」そう誘われた。
「悩みましたよ。失敗は許されない。ただ、子どもの頃から夢見た日の丸を付けることが、伴走という形で叶えられると思ったんです。自分にとって大きなチャンスが巡ってきた。その瞬間、不安は確信に変わりました」
10秒の世界の中で
もちろん狙うはメダル獲得。猛烈な練習をこなし迎えた大会当日。
伴走者として選手とともにスタートラインに立つ。号砲が鳴り、観客席から一番近い7,8レーンを駆け抜け、歓声を浴びながらの全力疾走。
「一瞬の出来事で、記憶がないんですよね。その中でも覚えているのは足の裏がゾクゾクするような高揚感と緊張。クラウチングスタートして30mくらいで徐々に上体が上がり、顔も上がる。それと同時に会場からの歓声が、『うわあぁぁぁ』っと後ろから襲ってくる感じです」
気づいたらゴール。ほどなくして、3位でゴールしたと知る。初の伴走、そして国際大会で見事銅メダルを獲得した。
しかし、輝かしい成功ばかりではない。過酷な伴走練習が続き、塩家さんの足の故障により、期待された国際大会で思うような成績を残せなかったこともある。それ以降、齋藤選手の伴走者を務めることはなかった。
「足を切らずに、記録を切ってくれますよ」
2004年はアテネパラリンピック開催の年。矢野選手の視力が次第に低下し、全盲になり、塩家さんが伴走者を担当することに。
しかし、代表選考1か月前に塩家さんが足を負傷。全治3か月の診断。「塩家を外した方がいい」そんな言葉が囁かれた。その時、矢野さんの言葉が男心に火をつけた。
「『僕は塩家さんとアテネを目指してきた。だから、塩家さんと走らないと意味がない。それでアテネに行けないなら、選んだ僕の責任です。大丈夫です。塩家さんは足を切らずに、記録切ってくれますよ』そう言ってくれたんです」
それからは連日治療に通い、代表選考10日前までになんとか回復。矢野選手との3週間ぶりの伴走であったが選考会では見事標準記録を切り、アテネパラリンピックの日本代表に選ばれた。
そして、迎えたアテネパラリンピック。100m競技でファイナルまで進み8位入賞という結果を残し、大会を後にした。
これ以上の練習はできないというほど、お互いに全力を出し切った結果。これまで自分を支えてくれた人たちの想いとともに挑んだ大会であった。
以下、それ以降の主な経歴
2009年 伴走を引退。指導者として、アジアユースパラゲームス(東京)日本代表コーチに就任
2012年 ロンドンパラリンピック陸上競技日本代表コーチに就任
ジュニア向けかけっこ教室(任意団体、塩家ランニングクラブ)を開始
2016年 NPO法人シオヤレクリエーションクラブ(SRC)を発足。リオデジャネイロパラリンピックで教え子1名が銅メダル獲得。その功績が評価され、文部科学大臣スポーツ功労賞受賞
2017年 アジアユースパラゲームズ(ドバイ)SRC選手2名出場。金・銀メダル獲得
2018年 アジアパラゲームズ(ジャカルタ)日本代表コーチ就任。SRC選手3名出場
子どもたちになにができるのか
現在はNPO法人シオヤレクリエーションクラブ(SRC)の理事長として、全国を飛び回る日々。
「障がい者に走る喜びを伝えたい」という理念を掲げ活動中。なぜ障がい者にフォーカスをしたのだろうか。
「パラリンピックや世界の舞台に行くような強い選手達は、僕らが黙っていても自分たちで練習するんですよね。その反面、『子どもたちはどうなんだろう?』と考えたんですよ。『かけっこを教えてくれる人や環境はあるのかな?』と。その時、『もしかすると、無いのではないか』そう思ってしまったんです。ならば、私がやってきた実績を踏み台にして、子どもたちが少しでも走ることで生きがいを感じてほしいと。そんな思いから、任意団体の塩家ランニングクラブを法人化し、名称も変え新たに立ち上げました」
あなたに障がい者のことはわからない
子どもが障がいを持って生まれたことに対し、とにかくマイナスに考えてしまう保護者も少なくない。そんな親たちに絶対にそんなことはないと話している。
「実際にパラリンピックの舞台で活躍している選手たちを沢山見てきています。そういう選手たちの生き方や存在を皆さんに教えることができるんです」
そう話すと、障がい児の保護者の方から、「障がいを持っていないあなたに、障がい者のことはわからない」と言われることもあるそうだ。
しかし、塩家さんの弟大朱さんの存在が、今の活動を始めたきっかけでもある。
『障がいは個性』そう言っていた弟
アテネパラリンピックの翌年、弟の大朱さんは32歳で他界。24歳の時に難病にかかり、ペースメーカを付けての生活が始まると、”障がい者手帳”を渡された。
「ある日、障がい者手帳を渡された数日後、弟が『兄貴、手帳貰ってから今まで飲みに誘ってくれた友達が急に誘わなくなったんだよ。それに、まわりも障がい者っていうだけで顔色が変わるんだよ』と言ったんですよ」
8年間に及ぶ弟の闘病生活を間近で見届けたからこそ、周囲の苦しみにも寄り添える。
「僕がやることにいつでも応援してくれた弟。この活動は亡くなった弟への供養にもなると思っているんです。障がいを持っている人たちに『個性を持つってこんなに楽しい』と心の底から思ってほしい。私は陸上だけじゃなく、子どもたちに箸の上げ下げを教えたりもします。普段の生活の中でもできることを少しずつでも増やしていくお手伝いをすることが私の仕事なんです」
自分はパラリンピックに出場できるのか
法人活動以外にも、日本パラ陸上競技連盟の普及振興委員を務める塩家さんは、次世代のパラアスリートを発掘する事業にも積極的に携わっている。
一般的にはあまり知られていないが、パラリンピックに出場するには細かな規定が存在する。肢体欠損の部位、麻痺の度合い・視力/視野範囲など。そのためパラリンピックに出場できる障がいなのかどうかも自身では判断できない場合が多い。
「海外ではパラの若手選手が次々に出てきて、競技力を高めあっています。日本はまだ競技人口が少ないため、学校や地域で、もっとパラスポーツを知る機会を増やして、身近に感じてもらえたらと思います。2020東京を契機に、将来の夢は「パラリンピック選手」という子どもたちがどんどん増えていくと思うので、周りも一緒になって早い時期から選手を育てていくことが重要です」
さいご 情熱をたぎらせろ
「協賛企業や、様々な人達のサポートも非常に大きいです。だからこそ、僕みたいな人間は休みとかいらないんですよ。働きながら死んでいけば。あの子たちは生きることさえも一生懸命というか。私が1分1秒頑張ることでその子たちが笑顔になれるなら、それで良いと思うんですよ」
常に情熱を燃やして生きてきた。インタビューの間もその眼差しに圧倒された。精神論ばかりでは事は進まないが、最後はハートが籠った人が人の心を動かす。
「100ボルトよりも200ボルト、300ボルトの電流を自分の体に流せばいいんですよ。声もちっちゃいよりは、大きく。ハートもでっかくするんですよ。そうすれば世の中は変わるんです。誰かが手をあげるのを待つのではなく、『俺がやるぞ!!』と。僕が目指しているのは障がい者が、健常者とおんなじ生活や楽しさを味わえること。これ以外になにもないです」