初の紹介されてのインタビュー
以前、インタビューした田中君の職場の上司。はじめての紹介されてのインタビューとなった。田中君の顔写真を職場で撮った時に軽い挨拶を交わし、今回話を聞くことができた。年上の方の話を聞き、これまでの人生を引き出すのに悪戦苦闘したが、とても話しやすい人で、徐々に打ち解けられた。
昼間は精神障害を持つ人たちの就労支援施設で働き、それが本職。その職場に関しては、以前紹介した、田中君の記事を参考にしてほしい。夜間は、元々ボランティアグループだったところを、2013年にNPO法人”街のひろば”を設立。ブログも定期的に更新中だ。多岐に渡る活動の中でNPOでの仕事を中心に話は進んだ。
街のひろばの活動理念
NPOの活動の対象は、外国にルーツを持つ子供の支援。例えば、フィリピン人のお母さんと日本人男性が結婚後、現地で子供を出産して、日本へ奥さんと子供を呼び寄せるも、離婚してしまう家庭がある。日本で育つ子供たちは充分な日本語を習得できず小学生や中学生となる。その結果、日本語能力と、学校の授業についていけない。そういう子たちの勉強など様々な支援をしている。
活動の目的は学習の支援に加え、居場所づくりの機能も重視している。例え、学校の勉強ができなくても、人と人が関わられる場の提供やコミュニティづくりが根幹。また、外国の家庭は日本に友人もいないため、地域、社会に居場所も見つけにくく情報量も少ない。そういった理由から、”街のひろば”という法人名となった。
様々な人が交じりあうコミュニティ
所属してまもない頃はボランティア団体として活動。何年か活動を続けていく内に、埼玉県が全国に先駆けて、子供の貧困の連鎖を支援する事業を始めたことが契機となり、助成金を受けることになった。生活保護を受けている子供、ひとり親の子供を含めた学習支援に対するものだった。
スタッフは約10名。生徒たちの人数はこれまでのべ50人程。生徒たちの幅は広く、小学生から大学生までが在籍している。月謝の支払いや休みの連絡、登録などはない。常に戸を開き、好きな時に来てください。というスタイルで、勉強や日本での生活で困っている子たちへの無償の塾のような運営となっている。
松浦さんは、主に中学生のクラスを受け持ち、生徒の能力もバラバラ。かけ算の九九を教えたり、プラスとマイナスの概念から教えることもあれば、受験勉強レベルの事も教えている。
そもそも、なぜ、社会での生活が困難な人たちに関心を持ったのか。20代の頃から振り返り、その紆余曲折に迫った。


自分の中身は空っぽだと気づいた20代
18歳の時、大学に進学。映像学科を選択。映像、音楽、ホームページ作成などのメディア関連をメインに学ぶも、作品づくりを苦に感じた。
「映像や音楽は好きだけど、制作に時間がかかるのが辛かった。年々、自分には違うなと感じることが増えていった。」
サラリーマンとして働く自分が想像できず、就職活動をしないまま卒業。困っていると大学の教授から、授業のアシスタントをしないか?と勧められた。
大学内でアシスタントする傍ら、先輩教員の紹介でデザイン系の専門学校で週1回授業講師をしていた。大学時代は予備校講師でアルバイト経験もあり、楽しく授業を教えていた。
「大学時代から人前で話す仕事をしていたので、授業をするのは大変だけど、とてもやりがいを感じた。教えることが自分は好きだと気づき、これを一生の仕事にしようと思い、教員免許を取ろうと決めた。」
一方で、空っぽの自分と向き合わざる負えなかった。 「専門学校で生徒に映像制作や、メディアのことを教えていたけど、自分の中身が空っぽだと思った。映像の仕事をしたわけでもないのに、生徒達に作品の作り方などを教え、まわりの業界トップのクリエイターの方からも仕事のオファーも頂いたこともあった。もらい、なにも作品を作ってないのに、申し訳なさと、身の丈に合っていないことをしている自分がヤバイなと思うようになった。」
例え教師になっても人生経験があるわけではない。教師を目指す自分とそれ以外にも自分で責任を持ち、行動をしなければという焦りとコンプレックスがあった。
社会的マイノリティ(少数派)という存在
コンプレックスを抱きながらも教員免許取得を目指し、夜間大学に通う。4年生大学を卒業していたため、3年生から編入となり、教職の授業の関係上、3年間通って卒業。国語の教員免許を取得。この学校での経験が、社会的弱者と呼ばれる人たちへ目を向けるきっかけとなる。
「型破りな先生たちが多くいた。大学の授業や教職に関することも教えるが、机の上だけではなく、体を動かし、逸失な存在と出会え。という考えの教授が多かった。」
ある年、授業を履修した先生は、社会的なマイノリティ(少数派)の人達と出会うことを推奨する人だった。授業の最終課題はレポート。テーマは”社会的少数者(マイノリティー)に出会いに行きインタビューをしなさい”というものだった。「誰をインタビューしようかと悩んでいた時に、教育実習で出会った、学校の授業についていけていなかった外国にルーツを持つ生徒のことが頭をよぎった。一方で、自分が他人に語れる経験がなにも無かったからこそ、「授業の課題」という機会を利用したかった気持ちもあった。本当にこのテーマに関心を持っている。というよりは、周囲の人に、僕はこんなスゴイことやってますよ。と言いたかったのかも知れない。」卒業したのは28歳。なにもなかった自分が教壇に立つ準備は整った。
高校教員時代の挫折と苦悩
卒業後は非常勤講師として高校で勤務。自分の目標にひとつ近づくも、2年で辞めざる負えない状況に陥ってしまう。「年度の途中で、というのは教職上絶対にあってはならないこと。生徒達にはなにも告げずに、ある日突然辞めてしまった。学校にはありえないくらいの迷惑を掛けてしまった。」辞める理由は聞けなかったが、一歩間違えれば今も平静でいられたかわからない程の精神的ショックがあったそう。
志した教師の道を、あっという間に転げ落ちる。自分が今後、どうしたら良いのかわらず途方に暮れた。仕事も無くなり本当の意味でなにもなくなった。なにかしないと社会との接点が絶たれてしまう。絶望の淵で救ってくれたのは、もがき苦しんだ20代の経験だった。「人生のどん底を経験し、人に言えないような苦しみを抱えた時に、今度は自分が社会的マイノリティーになったのだと気づいた。20代のときに知識として経験したことが実体験となって返ってきた。」
最初に通った大学の授業や、卒業後のアシスタントの経験。なにもないと思い知った所から教職を取得。その都度、自分の足りないところにぶち当たっては、多くを吸収しようとしてきた。その時は無駄かも知れない。と思ったことが、時間をかけて自分を支えた。「焦って色々動いていた時期に出会った学びが、それでもどうにか生きてみようと踏みとどまらせた最後の糧となった。何もないからと、諦めていたら本当にまずかった。」
変わっていく姿を見届けられる
そうして、社会的マイノリティの人達に対して、自分の経験が役に立つのでは。と思い、昼間は精神障害を持つ人たち。夜間はNPOで外国人の子供たちを対象に勉強を教える道を歩んでいる。
教えることは心底好きで、大学時代の予備校アルバイト、専門学校や高校での教師経験が自分の強みを気づかせてくれた。「教える楽しさ以外にも、子供が変わっていく場面に立ち会えるのも魅力。本気で物事に悩み、その結果成長したり。それらに立ち会えることがやりがいのひとつ。」
その一方、うまくいくことばかりではないようだ。「何度教えても変わらないこともある。時には、怒りや悲しみを感じることもる。」一生懸命に伝えても自分に返ってくるリアクションは想像と違う事の繰り返し。それに対してどう考え、受け止めるのかが本当の仕事としての根底だと、仕事の表裏一体な部分を話してくれた。
経験した思い出は嘘じゃない
対象となる生徒はフィリピン人や中国人などのアジア圏の若者たち。日本語の能力の差もあり、大変なようだが生徒達に対してどのような想いで接しているのだろうか。
「きっと、これまでの人生そんなに面白いことがなかったと思う。だからこそ、ここに来たらめちゃめちゃ面白い。という経験をしてもらえるように接している。」親から暴力を振るわれる。日本語を話せず周囲から疎外される。子供たちが大人はそんなもんだろうと思ってるだろうから、そうじゃない変な大人もいるよ。という姿を見せたいと思ってほしいそうだ。
「何年か経ったときに、あの大人面白かったな。と思ってもらえたらそれが嬉しい。その後の人生がもし不幸だったとしても、楽しかった時間は嘘ではない。」
福祉、教育の常識を壊したい
日中働く、精神障害を持つ人たちを取り巻く常識にも自身の考えがある。「障害を持っているから。君にはできないからやめておこうね。という考えが嫌い。何事もやらせてみて、その結果によって決めれば良いと思う。なんでも決めつけてしまう風潮に違和感がある。」
もちろん、すべてを壊すということではない。精神障害を持つ人たちの人権なども尊重しながらも、新たな可能性を提示し、より良いものを作っていきたい。という想いが詰まっていた。「既にあるものは面白くない。どこか、はちゃめちゃなモノは面白いし、かっこいい。そういう変なやつが来たぞ。と感じさせることが使命のひとつでもある。」
今後NPOの活動ではゲストハウスを作るのが理想。「色々な外国のルーツを持っている子がいる。その子達が持っている力を発揮させる場を作りたい。」思い描くだけで、まだまだと苦笑した。身近な目標で言うともっと多くの学生が集い、小学生や中学生が将来に憧れを持てるような、現在の街のひろばの教室の枠を超えた新しいコミュニティを作り出したいようだ。
40代に突入する期待と不安
インタビューを受けることでこれまでの人生の振り返りをしたかったようで、「インタビューを受けることで、自分を整理したいのもあった。今までの半生を話した時、自分自身がどう感じるのかを知りたかった。」20代の時、空っぽな自分に気付いてもがき、30代で教師の時代に挫折をし。再度、自分の方向性を固め歩み出した、福祉の世界。次は40代に突入する。
「何事もやっていれば、絶対なにかになる。もがいて、苦しくても行動した分、経験を得て、自分に返ってくることがわかっている。これからも挑戦を続けていきたい。」
行動を起こしていれば、人に出会えるかもしれない。なにもやらないよりも、何かをやってみたほうが奇跡が起こる確率は高い。だったらやらない理由はない。
さいごー継続力
今年で27歳の私。30歳目前に貴重な話が聞け、とても充実したインタビューだった。私自身もなにもないからはじめたこのブログ。自分自身と松浦さんの20代だった頃の焦りを重ね合わせながら話を聞いていた。「インタビューをしていて、今後どうなるのかまだ、わからないでしょうけど、続けていれば将来高橋さんの血肉になりますよ。」と背中を押してもらえた。
なにかに挑戦すれば、その分成功も失敗もする。思い描いた教師の世界を2年で辞めたのは結果として失敗と言えるのかも知れないが、教育機関だけでなくても視点を変えれば教える場所はある。例え失敗だとしても、その後に腐ることなく、その失敗すらも成功に無理矢理にでも持っていこうとすれば新しい刺激的活動が待っているのかも知れない。