台湾からドイツへ
大学時代の友人である、陳彦夫(チンゲンフ)さん。互いに同じフットサルサークルにも所属。
大学卒業から数年経ったが、突然『インタビューさせてほしい!』と伝えたところ、快く承諾してくれた。
日本で生まれ育った彼のルーツは台湾。大学卒業後は台湾でサッカーの仕事に従事していたが、これからドイツへ旅立つそうだ。
出自の話
――久しぶりの再会だね!そして、インタビュー承諾ありがとう!すごい今更だけど、どういういきさつで日本に来たの?
本当に今更だね(笑)。
台湾で産まれた祖父母は日本の植民地時代を生きた人。だから、12歳までは日本教育で育ったから日本語も堪能。
そして、両親もまた台湾で生まれて父親が大学を卒業後、母親と共に日本へ移住。自分自身は日本式のいわゆる一般的な保育園に通っていたよ。
ただ、小学校入ってから両親が中国語を学ぶ機会をくれたんだけど、抵抗があってさ。
正直、自分が台湾人という認識や台湾へのイメージが抱けなかった。だから、なぜ学ぶ必要があるのか?
そう思って断ったんだよね。
プロサッカー選手にはなれない
――サッカーを始めたのは小学生時代。その頃からポジションはキーパー。中高一貫校に進学後もサッカー中心の生活だったの?
高校2年生の時に、チームメイトや顧問と衝突して退部。その後はユースチームに所属した。
東京国際大学のサッカー部に入部しよう思ったけど、部員は500人(笑)。
高校時代の経験から、プロにはなれないと自覚していたけど、部員の多さも相まって選手としてのサッカー人生を閉ざした瞬間だった。
歌手活動
――程なくして、僕と陳君は知り合ったわけだけど、振り返ると、とにかく忙しい人。っていうイメージが強かったな(笑)当時はなにか取り組んでいたの?
1年生の夏休みからボイストレーニング教室に通い始めた(笑)。昔からとても音痴で嫌だったんだよね(笑)
月4回のレッスンで、徐々に上手くなって大学2年生のときには、東京タワーの特設ステージで300人の前で歌って。緊張もしたし、汗もダクダク(笑)
今となってはどこか恥ずかしい思い出だね(笑)
ライブ当日の写真
ひとり台湾に訪れて感じたこと
――全く知らない過去だ(笑)。大学卒業後は台湾で軍隊に入隊したそうだね。留学や進学の選択もあったと思うけど、どういう経緯だったの?
大学2年生の時に学校のプログラムで初めてひとりで台湾を訪れてさ。街並みや、風景、文化。それらに触れた時良い国だなと感じ、生活してみたいと思った。
華僑(中華系のルーツを持ち、海外で生まれ育った人)の人は、年間に183日以上台湾に滞在すれば兵役免除。
大学4年生の時に半年間、台湾で生活をしていたから免除できたんだけど、軍隊に行くことを自ら選んだ。
それは体も鍛えながら無料の留学になるんじゃないのか?って(笑)。それ以外にも、日本では体験できないことだと思って!
軍隊に所属していた頃
指導者としてのスタート
――この選択がサッカーの仕事に繋がったんだよね?
入隊前に台湾にある語学学校に通っていた時の、クラスメイトのドイツ人が小学校でサッカーを教えていたんだよね。それを興味本位で見学しに行ったことがあった。
ただ、その友人がドイツに帰国した際、小学校の方から「コーチやってくれませんか?」と誘われて。
軍隊で働きながら小学生にサッカー指導がスタート。いつのまにか、子どもたちに日本語も教えるようになっていた(笑)
恩師との出会い
――3か月間の子どもたちへのサッカー指導に加え、1年弱の兵役期間を満了。次なる選択はどういうものだったの?
今振り返っても人生において、大きな分岐点だったね。
兵役中に参加した、台湾全国少年サッカー大会で、滝川第二高校サッカー部の元監督、黒田和生先生にお会いしたんだ。
当時、先生は台湾サッカーの指導者として働いて従事。先生の下でサッカークリニックの手伝い、通訳、アシスタントとして働いた。
2016年には、台湾サッカー男子A代表の監督に就任なさった際、『通訳をやってくれないか?』と直々にオファーを頂いて。
「もちろんです!」と、その場で即答。(笑)
その後は、エキップメントマネージャーやGKコーチアシスタントとして1年間程、男子A代表のスタッフとして働いたよ。
男子A代表と共に練習。
経験はスキルで補う
――プロ選手の道は絶たれても、A代表選手のサポートができるのは大きな誇りだろうね。
もちろん、誇りやりがいはあったけど葛藤もあったね。
2018年からは女子A代表のスタッフとして、通訳、チームマネージャー、テクニカルスタッフの仕事を経験。
ただ、自分は選手としての代表選手の経験も無いし、大学でスポーツに関して学ぶこともなかった。
けれども、ミーティングでは選手ひとりひとりのプレーを指摘しなければいけない。それに対し反感を持つ選手もいたのも事実。
だからこそ日々自分のスキルを上げるのを心掛けていた。
異文化交流のツール
――間違いなく、台湾人としての陳君も存在しているんだね。「日本」と「台湾」このふたつのキーワードはあるの?
色々と模索しているね。
これまで、台湾少年サッカーチームを日本の神戸を始め様々な県に招待し、マッチメイクを行ったことで考えが変わっていったかな。
子供たちだけでなく、保護者も日本を訪れる。すると、サッカーはもちろん、日本の生活や文化にも目を向けてくれるんだよね。
そして、帰国後は日本人の挨拶や礼儀、食文化もライフスタイルに取り入れてくれる人もいる。
サッカーを通して、日本に興味を持ってくれる人がいるのもやりがいのひとつ、サッカーをツールとして新たな異文化交流の可能性も感じるよ。
『誰かのために』
――同級生が世界で活躍していることはとても誇らしいな!今は台湾で仕事に一区切りを付け、こうして日本の東京で再会を果たしたけど、今後はどうしていくの?
さっき話した、語学学校で知り合った、ドイツ人の友人からのオファーが来てさ。
「ドイツの町クラブで指導をしてみないか?」って。
今ある仕事におけるモチベーションは、誰かのために働くこと。
ドイツ人の友人が自分をサッカーの世界に再び導いてくれた。だからこそ、次は彼のために働きたい。
そう思えるのも、恩師である黒田先生の存在が大きいね。サッカーの技術や戦略面以上に、人間教育に力を入れてきた方。
選手やスタッフ、人々の心を惹きつけ、チームを団結させる姿を間近で拝見したことで、全く違った環境で挑戦しようと思えた。
新天地でも自分らしく頑張るよ!
恩師である黒田和生さん
「サッカー不毛の地を当時、60歳後半の方が台湾サッカーのために奮闘する姿にとても感化された」
メールマガジン会員募集 | 今を生きる人たちにインタビューcarpediem