農家の裾野を広げたい
「野菜作りにゴールはない」。その想いを胸に刻み、埼玉県さいたま市『さいたま榎本農園』にて、父文夫さんのトマト農家を継いだのは榎本健司(えのもとけんじ)さん。
江戸時代から続く16代目でもある。
「『生産+α』という言葉を心掛け、企業や団体などとコラボしながら、子どもたちに教育や農業体験をしています。その根底にあるのは、『農家の裾野を広げたい』という想いからなんです」
幼少期は「農家」ということでいじめられ、継ぐ事を拒んでいた。
しかし、決断を余儀なくされたのは35歳のとき。そして、その先に待ち受けていたものとはーーー。
苦い思い出
――幼少期の頃は、”農家の息子”というだけでいじめに合われたそうですね。
榎本 小学生時代、クラスメイトから『どうせ、農家を継ぐんだろ』と揶揄され、『臭い、変な匂いがする』と言われることもありました。
大人になっても当時の苦い思い出があった分、農家を継ぐことに抵抗がありました。そう抱きながらも、幼少期からよく畑の手伝いをしていましたね。
どこかで、いずれは(農家を)やらないといけないんだよな。と本能的な部分で理解していたのかも知れません。『もし、父が居なくなったら畑はどうするのか?』を考えたときに『俺しかいないよなー』と自問自答していたのを覚えています。
思い描いていた人生像
――農業高校の食品科に進学され、北海道酪農学園大学で畜産を学ばれました。大学卒業後の進路を伺いたいです。
榎本 卒業後は地元、さいたま市職員として農業政策や技術指導などに従事しました。その頃も農家を継ぐことは、うっすらは考えていました。
ですが当時、勝手に想像していたのは、父が80歳頃で引退し、私が50歳で公務員を早期退職。その後、細々と畑をやれればくらいの軽い気持ちでした。
迎えた決断の時
――そんな矢先に、父である文夫さんにすい臓がんステージ4が発覚。その半年後に亡くなってしまったと…。
榎本 いよいよ、決断の時が来たと。
例え、このまま公務員を続けるにしても畑の管理をしなければならない。元の生活に戻れないのは明白でした。
ただ、この時の思考が今の人生や経営の判断の礎になっています。
「どう死にたいか」そう問いかけた
――宣告されてからの半年間、お父様とはどういったやりとりをなさったのでしょうか?
榎本 父の仕事の想いや家族に対する深い話をしました。
父はよく、『あれもしたい、こんな仕事がしたい』と口にしていました。
その時間を過ごし、『果たして、自分はどう死にたいか』と思ったんです。親父は70歳で亡くなったんですが、当時僕は35歳。ちょうど人生折り返し地点なんだと。そう思った瞬間、違うスイッチが入りました。
チャレンジある人生を
――『自分はどう死にたいか』。そのお答えは?
榎本 死んだ自分を想像しました。
ひとつは、農家を継いだ自分。きっと、大きなチャレンジをしたことで、後悔が少ないんじゃないのかと思ったんです。
翻って公務員を選択した場合。恐らく仕事に追われ、畑に手が付かなくなり、最終的には売ってしまうんじゃないかと。『あの時なんでそんな選択をしたんだ』と悔やんで死に行く自分を想像しました。
前者が自分の人生を全うできる。農家を継ごうと決意した瞬間でした。
人生における選択や経営判断に関しても『死ぬ時の自分』というのを想像します。そこからが新たな人生のスタートでした。
取引先から一方的な契約打ち切り。ビニールハウスが大雪で潰れた1年目
――そうして、お父様の農家を継ぎ新たなスタートを切られました。順風満帆の船出でしたか?
榎本 それが初年度から大変で…。(笑)それまであった取引会社の9割切られたんです。徐々に減らす。とかではなくスパッと。父の名前であることが品質の信頼でもあったわけです。
さらに追い打ちをかける如く、大雪で所有しているビニールハウスの半分が潰れました。被害総額は約1千万円。神様序盤から試練与えるなーって思いましたよ(笑)
怯むことなく攻める
――壮絶なスタートでしたね…。そこからどう立て直したのでしょうか?
榎本 そのときも10年後などの未来を想像したんです。『俺1年目のときに取引先ほぼ無くなって、更に雪でハウス潰されたんだよな』と飲み会の席で笑いながら話す自分を(笑)
そう考えた時、少し楽になったんです。
ビニールハウスの面積を倍に。水耕栽培に切り替え、当時の最新の設備を導入。おまけに、新しい農法も取り入れました。新農法の設備費は一般的な設備費の3倍。
成功への確約があったわけでもありません。ワクワクするチャレンジに望みを賭けました。
点が線になる
――果敢な選択が注目を浴び、テレビや新聞などのメディアにもご出演されました。現在は「教育と体験」という切り口から、アグリイノベーション大学校にて、新規就農者向けの講師も行っていらっしゃるそうですね。
榎本 その頃から、なだ万や三越伊勢丹なども取引がスタート。2,3年目からは徐々に事業が軌道に乗っていきました。
これまでの人生の点がひとつの線になれたと実感しています。
市役所での経験、さいたま市ニュービジネス大賞に応募しグランプリを取ったり、市民向け農業講座では市民の方とも触れ合いました。そういった事柄が今の教育に携われることに繋がっているんだなって。
農家をかっこよく
――そして、榎本さんが今、抱く一番強い想いは「農家の裾野を広げたい」とのことですね。
榎本 とにかく、子供たちに農家の仕事に興味を持って欲しいんです。それは私ひとりでは実現不可能なわけで…。
なので、若手農家に対し収益構造の仕組みを共に作り、新しい可能性を一緒に模索しています。きついイメージが強い分、収入面が豊かでないとやりたい。と思う人は増えないと思っています。
地元の農業高校で講師をした際、生徒70人に『将来農業やりたい人いますか?』と聞いたら、1人しかいませんでした。
もちろん、まだ若く将来の事がわからないと思うんですが、衝撃的でした。昔よりも、農業のイメージはアップしていますが、職業としての魅力は乏しいんだなと。収入面だけじゃない、新たな農家の魅力をどう生み出していくのかが今の課題です。
作り出すのは家族の営み
――今後は担い手づくりもなされるということですね!最後にお聞きしたいのですが、幼少期は”農家の息子”という事で、いじめられることもありました。現在は、お子さんもいらっしゃいます。息子様にはどのような想いがありますか?
榎本 父に『俺はこの家に産まれてきたかったわけじゃない』そう言ったことがあったんです。その言葉を父はずっと引きずっていたみたいで。悪いことを言ったなと思いました。
ただ、そう言ってしまう原因もあったわけで。そういった想いを自分の子どもたちには、なるべくさせたくないですよね。
農家を継がせたい。という考えはありませんが、『お父さんのやっていること面白そう、やってみたいな』と前向きに人生を捉えられる環境を作ってやりたいですね!