埼玉県さいたま市にある「株式会社Few’s」。同社は”営業のプロフェッショナル集団”としてイベント、WEB事業、飲食事業。さらに独立支援も行っている。
個人事業主として働く佐藤一正(さとうかずまさ)さんはシングルファザーでもある。
「今、自分がいる場所は、過去から培った性格や考え方の産物。妻の死は己の過去を否定してしまう瞬間もありましたが、それらを乗り切れたのは子どもの存在でした」
3人のお子さんを支えながら、自己成長を掲げ現場を走り回る。その先には、あの日見た沖縄での景色がある―――。
――本日は貴重なお時間を頂きましてありがとうございます!幼少期から振り返りたいのですが、どのような子供時代をお過ごしに?
佐藤 父親が建設会社の社長で甘やかされたのか、友達も余り居なく、いじめもあり、勉強、スポーツもできない生徒でした。
そんな自分が小学校高学年になると先生の指導により、陸上やソフトボールで活躍する少年へと変化。
中学ではバスケ部に入部し、理数系が得意でメキメキと成績が上がっていきました。
――文武両道の最中、家庭環境の変化が…。ご自身も、この先をどう生きるかが問われることになりました。
佐藤 両親の不仲から離別。それが要因なのか、中学の途中からは悪戯好きな生徒になりまして(笑)。
将来像は特になく、とにかく「一体自分はこの先どうするんだ…」というので頭がいっぱい。ひとまず、一人で稼ぐ人間になろうと商業科に進学しました。
――高校卒業後は運送会社に就職。システム課に配属され、その後は、事務・会計・引っ越し・搬入作業など、膨大な業務量を担いました。
佐藤 とにかくトップになりたい一心でした。そのためにはすべての業務をこなすことが不可欠と定めていました。
仕事量が増すと共に周りから認められ、次第に働く楽しさと、自信が身に付いていました。
元々、自分大好き人間でして(笑)。当時は他の人ができるのであれば、自分も努力をすればできるんだという考え方。なんの根拠もない自信を持っていたんですが、確信に変わる感触を持っていました。
――入社して4年が経過。一転して、エレクトロニクス業界に身を投じました。なぜ、畑違いの業界を選んだのでしょうか?
佐藤 当時、バブル経済真っただ中。正直、お金に不自由のない生活でした。ただ、先輩方の働き方を見て、定年まで働く環境ではないなと薄々感じてもいました。
世の中で半導体は「産業のコメ」と言われ注目を浴びる業界。なんの知識もありませんでしたが、市場性とやる気を武器に挑戦しようと転職しました。
”若かりし頃の佐藤さん
――大卒社員と肩を並べての仕事。その頃から、学歴が価値基準として重要視される風潮へ差し掛かっていたのでないのでしょうか?
佐藤 たしかに大卒社員は昇進が早く、なにより悔しかった思い出があります。
ある日、部長に「学歴だけで判断されるんですか?」と聞いた時に、「勉強して実績を詰めば昇進はあるぞ」と言われスイッチが入りました。
前職同様、業務量を自ら増やしました。資材部に異動し、人と仕事、お金の流れを知る。仕組みの理解は仕事がより、自分事になる。また、ビジネスの根本とも言える営業も勉強しました。
――仕事に邁進しながら30歳にご結婚。その後、3人のお子さんにも恵まれました。しかし、時代の変化に伴いエレクトロニクス業界は海外企業が台頭。国内では徐々に衰退産業に…
佐藤 家庭のことは妻に任せっきり。仕事第一主義だったと思います。海外諸国の進出により業績低迷。それが要因で福利厚生の見直しが入り、その後の人生設計が立たなくなりました。
実は2014年に妻が病気で他界し父子家庭でして。今まで以上に家庭を支えなければいけない状況にいました。
産業衰退の中、仕事に没頭する日々。いつしか妻が先立ち5年が経過…。昇進の可能性もありましたが、自分も50歳になったことや、より可能性のある環境と成長を求め退職を決意しました。
”真ん中に映るのはご長男。両脇にいるのは双子の次男と三男
――退職されてからは”人のために”と、障がい者の就労支援や冠婚葬祭業に従事。より、やりがいを感じれる仕事を探す中、出会ったのが株式会社Few’sでした。
佐藤 HPで「独立してオーナーになれる」と目にしたとき、「嘘でしょ?」と最初は思いました(笑)
そんな疑問を抱きながらも、社長との面接や実際の現場見学。会社の本質も理解し、ここで挑戦しようと2020年6月に入社。
個人事業主と会社の関係性を保ちながら、Few’sが所有する商材を販売しています。ビジネスに必要な考え方を学ばさせて頂きながら、自己成長を感じれる。ワクワクした日々を過ごしています!
――入社から1年が経過。現在は独立に向けて動いているとお聞きしました!
佐藤 自分のチームを作れるポジションにいまして、マネージングも学んでいます。
個人で言うと、月ベースでの目標設定と事業計画を立案中。沖縄と関東を繋げるビジネスを考えています。
――社名は「株式会社POP」(Pacific Ocean Promotionの頭文字)とのことですが、なぜ、沖縄県を選んだのしょうか?
佐藤 話を戻すと、2011年に妻の病気が発覚し、当初余命が3か月と診断されていました。ですが、妻の努力もあり、3年間共に過ごせました。
辛い闘病生活を支えたのが家族旅行の目標。妻は沖縄に行きたいと常々言っており、念願叶って、家族4人で4泊5日の沖縄旅行を実現させました。
こんなこと言ったら妻に怒られそうですが、2000年に結婚し色んなところに旅行に行きましたが、一番自分の中で楽しかったんですよね…。今でも忘れられないですし、子どもたちともよくその話をします。
――家族との思い出のある地で新たなチャレンジを掲げたのですね…!社名にも込めた思いがあるのでしょうか?
佐藤 沖縄県から関東に広がる太平洋という意味はもちろん、子ども達の名前が含まれてもいます。
妻が子どもたちの名前を考えてくれたのですが、「優太、徹平、泰洋」。後ろの文字を繋げると「太平洋」になるんです。子ども達に残す会社という意味も込めています。
――自己成長を感じつつ、事業展開も着実に進む現在。3人のお子さんの存在がなによりの原動力に?
佐藤 人間として成長させて頂いたのは妻と子どもたちの存在が大きかったです。
妻の病気が発覚するまでは、仕事が人生だと捉えあまり家庭を顧みなかった。ですが、自分の足元もきちっとできていないことに気付かされ徐々に変わっていきました。
亡くなった悲しさから、一時は自分は蚊帳の外だと思い込み周囲と距離を取っていました。ですが、子どもたちはサッカーが大好き。ある日、自分もその世界に身を投じてみようと行動しました。すると、一緒に仲間として助け合ってくれる人がいて、その気持ちをもらえた。
残された妻の日記を見る度に、子ども達になにかしてあげたいと想いが込み上げてきます。
”妻との出会いは27歳のとき、30歳で結婚しました。付き合いたての頃は遠距離恋愛で週2, 3通手紙が届きました。昔からマメな性格で、闘病日記も毎日書いていました。その多くが、子どものことが綴られています。
――子どもたちから見ても、カッコいいお父さんだと思います!さいごに今後の展望をお聞かせください!
佐藤 独立実現に向けて、日々目標に向かっていける楽しさがあります。その中で、失敗もありますが、そこから学べる楽しさもFew’sには仕組みとして存在しています。
事業としては、沖縄県にある食べ物や価値観、情報などを発信しギャップを楽しめるコンテンツの配信を考えています。
また、沖縄県の人たちはオープンマインドの人が多く、一緒に仕事がしたいと考えています。プロモーションビジネスといって、共に働く仲間が成長し、その人たちがチームを持てる会社づくりが今の目標です!
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