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『あなたの人生を記録する』

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思春期に感じた大人への怒り。ノートに記した将来像を忘れることなく。 醍醐知輝(25)アニメ制作会社

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紹介からの出会い

 笹川さんからの紹介。彼女からは、「インタビューするにはうってつけの人ですよ。」と添えて、連絡先を教えてくれた。

 

www.carpediem-humanhistory.com

 

 彼にラインを送ると、「自分が思い悩んでいる時、このブログを読んでいました。」と返事をくれた。身長は170cm台後半と大柄。スポーツマンのようなハツラツとした姿で、とても話しやすかった。

 大学卒業後はエンジニアとして就職。3年間勤め、現在はアニメーション会社に勤めている。仕事内容もさることながら、幼少期からの思考や行動力が目を引くものがあり、年を重ねるごとに人生のボリュームを増やしていった。どのエピソードも彼なりの考えや人柄が如実に現れている。

 

彼にとって欠かせない人生の分岐点

 出身は東京都、板橋区で生まれ育った。7歳上の長姉と、4歳上の次姉、父母の5人家族。インタビューをする前に、自分にとって外すことの出来ない事があったと話してくれた。

 「自分が中学3年の時に、次姉がうつ病になってしまった。当時、姉は19歳で専門学校の学生。以降、7年間苦しんだ末、4年前に自殺をしてしまった。姉がうつ病になった時から、自分の人生は大きく変わった。」

 

ヤンチャだけど成績優秀

 小学校6年間、地元の野球チームに所属。父親から半ば強制的に通わされていた。「キャッチボールは好きだったけど、試合は好きじゃなかった。」

 地元の中学校に進学してからは、かねてより興味のあったサッカー部に入部。DFとしてプレーし、区大会では1回戦敗退だったが、恵まれた体格でしつこいDFに定評があったそうだ。

 中学時代までは成績も良く、特に英語と数学が得意だったものの真面目な性格とは言えなかった。

「大きな悪さをすることは無かったけど、勉強が得意なため先生も自分には思い切り注意ができなかった。そのため中学時代はとても調子に乗っていた。」

 

思春期に起こった苛立ち

 彼が中学3年生の時に、専門学校に通い始めた次姉が、学校の成績等の理由からうつ病になった。

 当初は家で泣いている程度だったが、自ら死のうと包丁を持ち出すなど、病状は悪化していった。

 「ふさぎ込んでいく姉を見るようになってから、自分自身の精神状態も不安定になり、なにを信じれば良いのかわからなくなった。周りの大人は正論を言っている。一方で、ニュースでは企業不正や汚職議員などが取り上げられ、大人も悪いことをやっていな、と気づいた時に、大人はクソ野郎だ。と感じた。」

 

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中学生、サッカー部時代の一枚。彼は一番左下

こういう大人になりたいな

 大人の不条理に悲しみと怒りが込み上げた。それと同時に、自分が大人になった時、どうありたいのかを考えた。

 「自分が思う好きな大人を2、3ページノートに書いてみた。嘘をつかない。元気。友達を大事にする。こういう大人が好きだな。と思うものを書き連ねた。そして、これを実践していけば、理想の大人になると思い、毎日ノートを見ては、なりたい大人に近づこうとした。」

 

 サッカー部を退部してからの高校生活

 高校はサッカーが強いところを志望し、東海大学付属高輪台に進学。「自分のひとつ上の代は、インターハイ出場を果たす程の名門校でしたが、練習量についていけずすぐに退部してしまった。」

 新しく情熱をかけるものを見つけられず、アルバイトを始めた。「理想の大人を書いていたこともあり、早く大人になりたかった。社会経験のつもりで、最初はセブンイレブン、地元の焼き肉屋、魚料理屋、ピザのデリバリーなど。常に2、3個掛け持ちしていた。」

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高校時代の写真。写真中央にドッシリと座る彼


 

すぐに終わると思った就職活動

 卒業後は附属大学、経営学部に進学。実家から通うには遠く、大学近くで一人暮らしをはじめた。大学3年生となり、就職活動開始。自分の将来と真正面から向き合うことになった。

 「自分はルールや規則が嫌いだったため、堅苦しいイメージがある公務員や金融系の業界は選ばなかった。また、接客業のアルバイトではBtoCがメイン。そのため、BtoBに挑戦したかった。このようにして業界を定めていった。」

 徐々に業界が定まり、内定を獲得したら、すぐに就活を終えるつもりだった。しかし、食品会社と不動産会社、ふたつ同時に内定をもらってしまう。じっくりと悩んだ結果、両方とも辞退した。

 

大人になったと感じた瞬間

 両親からは猛反発。「この時代に、お前を雇ってくれる会社が2社もある。それを断ることの意味をわかっているのか。とすごい止められた。それでも、自分が納得ができない選択はしたくなかった。」

 「親からの助言を振り切って2社からの内定を辞退した時が、初めて自分の意志で決めた物事だったように感じた。」と彼は振り返る。「それまで、アルバイトは自分で決めていたけど、大人として自分で決断した感覚があった。」

 内定を辞退した後はIT業界の先進的な側面に惹かれてソフトウェアを自社販売している会社にエンジニアとして採用された。

 初めは営業職を志望していたが、面接の段階で「一般職より3倍きついけど、3倍やりがいがある」と話を頂いたのがきっかけでエンジニアとして就職することを決めたという。

 

姉の死

 大学4年生になって、就職活動を機に一人暮らしを終えて実家へ帰ってきた彼。気づけばお姉さんは7年半、重度の統合失調症を患っていた。彼だけは家族の中で唯一、お姉さんのことを病人として接しなかった。

 「常にふさぎ込み、部屋でひとり体育座り。それでも、”元気出しなよ、俺は姉ちゃんが病気だろうと関係ないよ。”と声をかけ続けていた。」お姉さんにとっても、自身を病気として扱わない弟は唯一の存在だったそうだ。 

 ほどなくして彼の就職が決まり、お姉さんの病気を治そうと立ち上がる。「社会人になったら、姉と過ごせる時間は少ない。その時に一番困るのは姉だと思い、はじめて病気の姉として向き合い、話をしたら、喧嘩になってしまった。」

 互いに初めての衝突。明確な理由は定かではないが、次の日にお姉さんは自殺してしまう。「病気が原因だと言えばそうかも知れない。けど、俺のせいだなと今でも思う。一番大きなきっかけを作ってしまったのかも知れない。」

  

評価される嬉しさと、裏にあった仕事への想い

 お姉さんの死を受け入れながら、大学卒業後は内定先で働いた。「文系出身だったため、1年目はわからないことばかりで地獄のような生活だった。夢の中でエラーコードが出てくることも度々あった。」

 多忙を極める入社1年目に4か月間以上を要した大型案件を担当し、社内最速でMVPに選ばれた。2、3年目はプロジェクトマネージャーとしてプロジェクトの管理をしつつコンサルタントの業務も兼任してきた。

 「単純作業は好きでない反面、プロジェクトマネージャーとして案件をコントロールするのは好きだという事がわかった。」というように自分の長所が見えてきたのだが、一方では入社1年目の時から自分のしている仕事に違和感を覚えていた。

 「自分のしている仕事がお客様や社会に対して役立つことはわかったが、ソフトウェアはシステムの裏側で機能するものであるために、自分のした仕事が生活の中では目に見えなかったため自分の中で違和感を感じていた。」

 

やってみたかったことを選択

 そうした中で今年の4月で4年目を迎えた。業務の幅を増やし知識とスキルを修得。

 「幼少期から絵を描くことが好きで、入社1年目からアート業界での転職先を探したが、一括りにアート業界と言っても幅が広すぎるため、自分の中で明確な職種や業界は見つからなかった。加えて日々の業務に忙殺されて転職活動をする余裕も無かった。一方で今のうちにニートやフリーターを経験したいと思っていたり、オーストラリアのエアーズロック(世界最大級の一枚岩)に行ってみたいと考えていた。シーズン的にも見ごろだと知って、急遽5月に退職することにした。」 

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趣味の絵。元々はアナログだったが今はデジタルで描いている

 

2週間のオーストラリア旅行

 オーストラリアでの滞在は合計で2週間。最初の目的地は、エアーズロック。その後は友人からの勧めでバイロンベイ。と首都のシドニーを一人で回ることにしていた。

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エアーズロック

 

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まず初めにエアーズロックからわずか数kmの場所にあるホテル街、エアーズロックリゾートで仲良くなった”アリソン”



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バイロンベイにて。ドイツ人の”アダム”と仲良くなり、海に行ったり、互いにご飯を作り合うなど、恋人チックな時間を過ごした

 

 

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旅の最終目的地シドニーで滞在した宿の住人達。彼らのほかにも空港で仲良くなったオーストラリア人のおじさんと明け方までお酒を飲んだ


  

自分の想いが伝わる。それだけで良い

 濃厚な時間の中で、ひとつ忘れられない体験があった。エアーズロックリゾートのバーで近くに居合わせたオーストラリア人の若者7、8人に「一緒に話そうよ。」と声をかけられた。「あまり流暢じゃないから、話せないよ。」と言う彼に対し、「関係ないだろ。今も普通に話せてるんだから、混ざろうぜ。」と迎え入れてくれた。

 「その時、ジェスチャーや、拙い英語を絞り出してコミュニケーションを図った。全然話せないんだけど、英語を話そうとしている自分がすごい自由なのを感じた。それと同時に、自分の正直な気持ちが伝わるのが一番大事だと感じた。できないからといって、遠慮する必要はないと痛感した。」

 

アニメ制作という仕事

 帰国後はニートとしてダラダラと過ごし、その後フリーターとしてアルバイトで生計を立てながら次の就職先を考えた。その際、自身の好きなアニメを制作している会社に興味を持った。どのような職種があるのかを調べた時に制作進行という仕事を目にした。

 「制作進行に関する本を読み、30分のアニメを作るのに200人程度からそれ以上の人が関わる事がわかった。作業工程も脚本、原画、色付け、CG、アフレコなど、大勢の人たちが携わっている。そこで働く人たちのスケジュール管理や素材の管理、作業環境の管理をするのが、制作進行という仕事。そこに興味が湧いた。」

 

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自身にとって理想の環境

 制作進行という仕事に興味を持った最大の理由は、エンジニア時代に感じたことにある。「入社3年目に日程調整や細かな管理をすることが好きだと感じた。制作進行の仕事はそれに通じるものがあると感じた。更に、当時は自分がした仕事があまり目に見えなかった。一方、そこでは自分のした仕事がアニメとして放送されるなど、形になるところまで見届けられる。以前よりクリエイティブなものに関われ、自分にうってつけだと思った。」 

 インタビューしたのは10月下旬。見事採用され、11月1日から晴れて、その会社で制作進行として働いている。

 

中学生時代の自分と亡くなった姉への想い

 インタビューの最後に、中学生時に書いた自分にはなれてるのか尋ねてみた。「変わった部分もあるかも知れないけど、当時の自分が今の自分を見ても信用してもらえると思う。大人になっても当時の自分が見たら。という視点で常に生きている。」

 来年の1月には26歳。彼にとっては節目の歳だそうだ。「次姉が泣くなったのは26歳。自分の中では、26歳になるまでに、現状を変えたいと動き続けてきました。姉の事や人生観を人に相談すると、”自分を変えるかどうかはお前次第。お姉ちゃんを軸に考えるのは逃げだ。”と言われる事もあったけど、自分にとっては意味があります。」

 

さいごー悔しい思いが人を育てる

 思春期に感じた大人への不信感。多くの人達も同様に苛立ちや不満を大人に持っていたことだろう。彼は当時の想いを書き留め、忘れることなく大人になった。 インタビューを通して、彼が話す思い出や考えには嘘ひとつ無く、少年のような素直さがあった。

 当時の不満は自身が年齢を重ねる中で、物事への興味や関心の種を植え付けた。その都度、自分に対して”なぜ?”を自問自答してきたように感じる。それらが血肉となり様周囲の言動や評価を鵜呑みにすることなく自身で評価を下せるようになった。

 現在働く会社は、幼少期から思っていた社会への疑問。成長するにつれて自分で出した答え。すべての要素が合わさった選択だと感じた。

 

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