たった一コマの授業での出会い
私が大学3年生の時に、日本語教員の授業を履修していた際、知り合った先輩。ひとつ学年が違うため、以降、接点は無くキャンパス内ですれ違うことはあれど、身の上話などをしたことは無かった。
今回、インタビューを試みた理由は、知らなかったからこそ、知りたいと思ったからにある。インスタグラムやフェイスブックで、卒業後のことはなんとなく知っていたが、”本間さんがこれまで、どのような人生を歩み、なぜインストラクターとして働いているのか。”と疑問に感じた。
実際、連絡を取ると、おもしろそう!と返事を頂き、今回のインタビューとなった。
幼少期から活発な彼女。ダンスとの出会い
東京都の奥多摩方面で産まれた彼女。小学校時代から、活発な生徒だった。「夏休みは家の前を流れる、多摩川で毎日のように遊んでいた。秘密基地を勝手に人の家に作り、怒られる事もあった。(笑)」3人姉妹の末っ子で、お姉さんの影響で小学校3年生からダンスを始めた。以降、勉強よりもダンスにハマっていく事となる。
親戚の同い年の子が、中学受験することを聞き、一緒に学校見学に行った際、校舎が綺麗だったことと、私立中学は土曜日が休み。そのふたつに惹かれ、彼女も中学受験をし、中高一貫校に進学。
入学後はバスケ部に入部したが、まわりの友人達の普段の学校生活と、部活をしている時のスポーツにかける情熱のギャップに溶け込めず、3か月で退部。以降、渋谷でダンスを習いに通い始める。「高校生の時は、ヒップホップにハマっていた。本当に、勉強は苦手で、特に理科や化学は嫌いだった。とにかく、勉強よりもダンスを優先する生活を送っていた。」
ダンスに没頭しながら思ったこと
そのまま附属高校に進学し、ダンスに熱中した高校時代。大学進学は考えていなかったが、ダンスの道を進むことへの決意が持てない時、一番の親友が動いてくれた。「親友がたまたま、テレビで流れたダンスの専門学校のCMを見て、私に合うと思い自宅宛に、学校の資料を送ってくれた。」親友の行動に心を打たれ、実際に学校見学をし、指導者の先生も良く、そこに決めた。
卒業後は都内のダンス学校に2年間通い、毎日踊り続けた。卒業後もバイトをしながら、ダンス生活を送っていたが、ある日突然このままで良いのだろうか。と自分に問いかけた。
「幼少期から自然や動物が好きだった。ふとテレビで、ナショナルジオグラフィックの映像を見た時に、”このままダンスばかりやっていたら、私の人生狭いな。”と思い、もっと他の世界を見たくなった。」高校の恩師に連絡を取り、自分に合う大学を探し、東京国際大学、国際関係学部へ21歳の時に入学。
世界を広げるために、自ら動く
それまでは、嫌いだった勉強も、様々な学問を率先的に学んだ。長期休みの時は、毎年海外に行き自分の世界観を広げた。「1年生の時は1か月半、オーストラリアのメルボルンで生活した。田舎の牧場で暮らしたり、都会でホームステイをしながら、日本語教師のアシスタントのボランティアを経験した。」その時が、初のひとり海外生活。異国の地での生活がより、海外へ行きたいと思わせた。
大学3年生の時には、日本語教員の研修でモンゴルの首都、ウランバートルで生活。勉強と海外への渡航を両立た学校生活を送った。「入学当時は、自分が見たものや感じたことを、発信する側に魅力を感じていた。実際に学び、様々な土地を訪れることで、自分は現場にいながら、そこにいる人たちと喜びや楽しさを分かち合うことがしたい。と感じた。」
二度目の進路選択の悩み
就職活動では、リクルートスーツを買うことは無かった。「企業に行く気が全くなく、企業説明会にも参加しなかった。毎日、電車に乗って出社という生活が嫌だった。」
最初は日本語教師の仕事に就こうとも考えたが、給与面などから、断念。卒業後の進路が決まらないまま、大学4年生の11月に突入。「進路で息詰まっていた時に、高校時代にダンスの専門学校を紹介してくれた友達と沖縄旅行をした。」この旅行が、現在の仕事への大きな足掛かりとなった。
親友から言われた、ある一言
沖縄旅行でやりたいことのひとつに、ダイビングを盛り込んだ。しかし、ダイビングの前日に、島民の人と朝まで飲み明かし、最悪の体調だった。「船でも吐いたし、ダイビング中も吐いていた。だけど、すごい楽しかった。(笑)」
体調が悪くても、海の中は鮮やかで、泳いでいる魚や亀などの生物に感動した。自然美に圧倒さると同時に、そこでインストラクターの人達も楽しそうに働いていた。
ダイビング後、友人と一緒に温泉に入りながら、進路に関する悩みを打ち明けた。「美郷は絶対に嫌いなことはできない。やりたいなと思うことをやったほうが良いよ。」と、親友は彼女に告げた。その言葉で、卒業後の進路の道が切り開けた。
「友人に言われた言葉と、自然の中で楽しく働く人達を見てそういう仕事をしたいと決意した。」東京に帰り、パソコンで地元、奥多摩のガイドの仕事を調べる事から始めた。
順調な生活を送る中で
ガイドを募集していた会社を見つけ、連絡を取った。面接後、カヤックの練習をし、その場で採用。もちろん、ガイドの仕事は初めて。自分が生まれ育った、風景が職場となった。自然に囲まれる中、カヤックだけではなく、色々なアウトドアスポーツにも触れ、インストラクターのスキル、知識を増やしていった。
就職してから2年が経ち、ある出来事が起きた。いつも通り、ライフジャケットを閉めようと思ったとき、胸にシコリのような違和感と痛みを感じた。病院で検査をし、葉状腫瘍と診断された。
「ガンにもなりうる腫瘍。今は陰性で体調も良好。手術のおかげで、完全に腫瘍は取り除けたが、また再発し、ガンになる可能性もある。」死への恐怖もさることながら、人生いつなにが起こるかわからない。やりたいことをやろうと決めた。
計画よりも直観的な人生
3年間働き、昨年退職し、2月に3か月間、フィジーへ語学留学に行った。「今まで旅行で外国に行ったことはあったが、英語を集中的に勉強したことはなかった。もっと、英語を学びたいと常々思っていた。」
フィジーの留学後は、ニュージーランドにワーキングホリデーの予定を立てていたが一転、奥多摩での生活を満喫したい。とコロッと変わった。
「帰国してから、ガイド仲間と奥多摩をハイキングをしたり、山々を堪能していたら、より奥多摩のことが好きになった。今は前の職場でアルバイトとして働きながら、フリーでガイド仲間から、仕事を頂きながら生活している。」
これまでの人生を振り返っても、計画を立てた人生は歩んでいない。とニコヤカに話していた。
自然の中で働く事の楽しさ
客層は広く、夏休みは学生から会社でのグループ。平日にも、家族連れや年配のご夫婦など、老若男女様々な方が利用している。彼女にとっての仕事の一番のやりがいは、接客だという。「お客さんが楽しんでいる姿を見るのが、すごく楽しい。自分自身も常に楽しませようと、色々な要素を盛り込んでレクチャーしている。」
幼少期から楽しむことを優先。それは社会人になった今も変わらない。「こういう性格だから、仕事に関しても常に楽しんでいたい。そのためには仕事環境や、職場の人間関係も大事。特に、どういう人と仕事をするのか。が一番大事。そのうえで、楽しく生きていきたい。」
去年の冬には、以前から好きだったヨガを仕事にも取り入れようと、半年間ヨガ教室に通い、指導者の資格を今年の5月に取得。自分が得意とするサップと掛け合わせて、奥多摩でインスタクターもしている。
動物と人間の共存
アラスカやパタゴニアなど海外の自然に行きたい。と思っているが、今の仕事での時間や経験を第一優先としている。「今は自然ガイドという資格の勉強を始めている。雲を見て、この後の天気がどう変化するのかなど、野草なども含め様々な自然現象に関して勉強中。」
また、奥多摩で馬と人間の共生ができたら良いな。と夢を持っている。与那国馬と呼ばれる、日本の在来馬が好きな彼女。久米島にある、夫婦が経営している牧場に以前、フェイスブックを通じて知り、ひとりで訪れた。絶滅危惧種である、その馬を再び人間と共存していた生活を再現している方たちで、年に数回は訪れ、馬のお手伝いなどもしている。
「奥多摩にも、馬頭観音(まずかんのん)と呼ばれる、馬を弔うための慰霊碑が置いてある。以前は、山間を抜けるのに馬を使っていたそうで、土砂崩れで亡くなってしまった。今は、トラックが移動手段に変わった。奥多摩でも、人間と馬の共存ができたら、楽しいなと思う。」
さいごーネットじゃわからない事は、山ほどある
幼少期は地元の自然が遊び場。年を重ね、ダンスに没頭した時は都内をメインに動き、大学は海外。自然、都会、世界と様々な場所で経験を重ね、辿り着いた先は自然だった。「子供の頃、家の前の川をカヤックが流れている所を見ていたけど、まさか仕事にするとは、思ってもみなかった。奥多摩も近くにありすぎて、逆に行かなかった。」そう語るように、まさか私が。と予期しなかった人生を歩んでいるのだろう。
幼少期から活発だった少女は、大人になってもその頃の感性を無くすことなく、興味と知識を持ち合わせて、仕事にも還元している。情報量が多いこの時代に、好奇心が赴くままに、自然や国々を遊びつくす様子を聞くことができた。
冒頭にも述べたが、本間さんに興味を持って、直接話を聞くことができた今回のインタビューは、SNSだけで知る事のできない人間模様を伺う事ができ、非常に有意義なものとなった。
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