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恩師の想いを引き継ぎ、ドイツからの再出発。 陳彦夫(26)台湾女子サッカー代表/テクニカルスタッフ・通訳

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キーパーとしての迫力感

 大学時代の友人。当時から恰幅もよく、物言わぬ威圧感があった。互いにフットサルサークルに所属していた。彼がキーパーをやると見事に、ゴールの枠は彼で納まり迫力があった。大学時代から様々なコミュニティを持ち、ゼミやアルバイトと色々と動いていたのを覚えている。

 卒業後は、それまでの人生とは大幅な進路変更。それに伴い、彼に衝撃的な出会いが待っていた。日本語がペラペラ、国籍は台湾。名前は陳彦夫。インタビュー前に、「陳君は何人?」と聞いたところ、「地球人かな?(笑)」と答えた彼の数奇なサッカー人生。

 

日本で生まれ育った彼の幼少期

 彼の祖父母は日本の植民地時代を生きた人。12歳までは日本の教育を受け、日本語も不自由なく話せる。両親も台湾で生まれ、父親は台湾の大学を卒業後、日本へ移民。母親も同時に日本へやってきた。そして、日本で彼は産まれた。

 保育園から日本人と共に暮らした。小学生の時は、両親が彼に中国語を学ばせようとしたが、本人は抵抗があった。「日本語ができれば良いと思っていた。加えて、自分の中で台湾のイメージが無く、なぜ学ばなければいけないのか。と疑問に思い、学ぶのを嫌がった。」

 テレビドラマにあるような壮絶ないじめには合うことはなく、名前をいじられるぐらいで、楽しく学校生活を送ることができた。

 

中学時代の寄り道と現実を知った高校時代

 小学校から地元のサッカー少年団でを習い始め、ポジションはキーパー。中学受験をし、中高一貫校へと進学。入学以降は、サッカーに対する情熱もあまり無く、ラグビー部に入部するも、学校の事情により廃部。その後、水泳、茶道、空手、バトミントンを転々とした。色々スポーツをしながら、”自分はサッカーが好きだ”と再認識。そして、3年生からサッカー部に所属。

  そのまま、高校へ進学しサッカーを続けた。「それまでは順調にやっていたが、高校2年生の秋口にチームメイトや顧問と衝突をした。話し合いもしたが、次の挑戦を選んだ。」それ以降は、地元のユースチームに所属した。

 大学進学後も、続けようと思っていたが部員は500人程。選手としてのサッカーの道をそこで閉ざした。「高校時代の部活や、ユースの経験で高校3年生の頃には、プロの世界は無理だと自覚していた。プロは無理でも、大学でもサッカーを続けようと思ったが、部員の多さに続けることすらも諦めてしまった。」

 

サッカーを止め、次にはじめたものは

 大学でのサッカー生活を諦め、部活に入らなかったが、1年生の夏休み終わりにボイストレーニング教室に通い始める。「昔から、とても音痴だった。(笑)そんな、自分が嫌で恥ずかしかった。カラオケに行って好きな曲を歌うも音痴。克服しようと思って通い始めた。今振り返ると、恥ずかしい過去だけどね。(笑)」月4回のレッスン。その学校に通うために、アルバイトをしているような生活だった。

 はじめたら、突き詰める性格。歌が上達し、先生からライブに出ないか?と誘われた。大学2年生の秋に、東京タワーの特設ステージで歌を披露。「300人の観衆の前で歌った。緊張もしたし、汗もダクダク。(笑)」

 その後、本格的に歌手を目指さないか?とオファーも来たようだが、あくまで音痴改善として始めたこともあり、自分にその才能もないと感じ、大学3年生でスクールに通うのを辞めた。 

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ライブ当日の写真

   

ひとりで訪れた台湾で感じたこと

 大学2年生の時に一度、英語のプログラムで台湾を訪れた。「これまでは家族と台湾を旅行しに行っていたが、ひとり訪れた時に、良い国だなと感じた。」

 それ以降、ひとりで台湾を周りながら生活してみたいと思うようになった。その頃には卒業後は台湾の軍隊に行こうと決めていたのもあり、大学4年生の時に、半年間台湾で生活した。

 

厳しい訓練生活

 華僑(中華系のルーツを持ち、海外で生まれ育った人)の人は、年間に183日以上台湾に滞在すれば、兵役免除となるが、彼は軍隊に行くことを選んだ。「親と話し合い軍隊に行けば、無料の留学になるんじゃないのか。という結論に達した。日本の人では経験できないものが体験できると思った。」そして、大学卒業後は入隊。

 6時に起床し、早朝から3キロのランニングと行進の練習。昼食後、基礎運動を4時間。19時からは座学で軍の掟や、法律に関することを学ぶ。21時に消灯。これが主な一日の仕事。

 夏は冷房が無く地獄のような生活。一部屋は学校の教室の大きさで2段ベットを敷き詰め、120人が寝る。訓練が一か月続いたころ、軍から観光局へ異動することになった。最寄り駅から2時間ぐらいの山奥の観光局に派遣され、朝9時から6時まで働いた。10日連続勤務、4日休みで働き、休みの時にはサッカーを教えていた。

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軍隊に所属していた時の様子

 

語学学校での出会い

 入隊前に台湾の語学学校に通った。そこのクラスメイトのドイツ人が山奥の小学校でサッカーを教えており、惹かれてついて行った。ある日、そのクラスメイトが母国のドイツに帰国。学校から「コーチやってくれないか?」と誘われ、軍隊で働きながら指導を始めた。

 「はじめはコーチから始めたが、子供たちに日本語も教えるようになった。国内のサッカー大会にも参加するなど、3か月間そこで働いた。」二足の草鞋を履きながら、1年15日間の軍隊での無事に軍隊での仕事を終え、次なるステップとなる。

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町クラブからA代表のスタッフに

 兵役中に参加した、台湾全国少年サッカー大会の予選で、滝川第二高校サッカー部の元監督で、黒田和生先生と出会う。台湾サッカーの指導者として働いており、その人に見染められ、サッカークリニックの手伝いや、通訳としても働いた。兵役後は黒田先生のアシスタントとして本格的に働く生活となった。

 2016年の11月には、黒田先生が台湾の男子A代表の監督就任。そして、通訳をやってくれないか。と直々にお願いされる。「もちろんです。と、その場で即答した。」去年、チーム事情により黒田先生は監督を退き、後任としてイギリス人監督が就任。その人の下では、エキップメントマネージャーやGKコーチアシスタントとしても働き1年程、男子A代表のスタッフとして働いた。

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台湾男子A代表との写真。中央部分に彼が居る。

 

代表経験が無い、指導のジレンマ

 2018年の1月からは女子A代表のスタッフとして働いている。日本人監督の下で、通訳、チームマネージャー、テクニカルスタッフの仕事を担い、それまで以上に仕事の量が増えた。代表選手は彼よりも年上かつベテラン選手も多く在籍。

 「自分は代表選手の経験も無いし、大学でスポーツに関して学ぶこともなかった。けれども、ミーティングでは選手ひとりひとりのプレーを指摘しなければいけない。それに対し反感を持つ人もいた。選手との衝突は日常茶飯事だが、それもチームのため。」

 

誰かのために働くというモチベーション

 当初は町のサッカークラブのスタッフとして働いていたが、恩師からのオファーで規模が広がった。仕事としてのサッカーの向き合い方や、情熱は年々変化していった。「はじめは、サッカーという立場で、台湾に元気やパワーを与えられる仕事と捉え働いていた。」

 そんな折、黒田先生に出会い、A代表のサポートは、自身にとって刺激になっている。「サッカー不毛の地を当時、60歳後半の方が台湾サッカーのために奮闘する姿に感化された。台湾への想いもあるが、この人のために働きたいというのがある。」

 

日本と台湾、サッカーを通じて見える日本の生活スタイル

 自分に流れる台湾の血。生まれ育った日本で作られた体。サッカーを通じて、台湾と日本の架け橋になりうるだろう。今までには、台湾少年サッカーチームを日本の神戸を始め色々な場所に招待しマッチメイクを行った。

 「子供たちだけでなく、保護者も日本を訪れる。日本から戻った際には、サッカーへの関心も増すが、日本の生活にも目を向けてくれる。帰国後は日本人の、挨拶や礼儀、ライフスタイル。食事を取り入れてくれる人もいる。サッカーを通して、日本に興味を持ってくれる人がいるのもやりがいのひとつ。」 

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アジア女子サッカーを4つのレベルに分けると 1・日本、中国、韓国、オーストラリア、北朝鮮。2・タイ、ベトナム、ミャンマー。3・台湾、フィリピン、ヨルダン。4・インドネシア……。選手たちはプロではなく、本業としてエンジニア、銀行員、教師、コーチがいる。

ドイツに舞台を移して

 台湾でのサッカーの仕事に一区切りを付け、この記事がアップされた翌日の10月17日にドイツに渡航。(9月19日にインタビュー)以前、語学学校で知り合い、彼に山奥で小学生を対象に教えていたドイツ人からのオファーで、「ドイツの町クラブで指導をしてみないか?」と声をかけられた。

 「ドイツ語はできないが、ヨーロッパでの指導は前から憧れていた。この人が自分をサッカーの世界に再び導いてくれた。次はこの人のためにも頑張りたい。」

 また、ケルン体育大学でスポーツを学びたいとも話す。「スポーツコミュニケーションやマネジメントを学びたい。台湾はテクニックや戦術を追求している。しかし、技術だけでなく、運営やマネジメント力も無ければができなければ、良いチームにはならない。」自分がヨーロッパのサッカーを現場で学びながら、学問として知識も増やし、台湾にいつか還元したいようだ。

 「黒田先生も教育者として、サッカーよりも人間教育に力を入れてきた。様々な指導者や現場を見たが、自分は恩師の人の心を惹きつけ、チームを団結させる姿が自分が目指したい所だと確信した。体調を崩さなければ、まだ多くのことをやりたい事があったと思う。先生の意思を継いでこれからもやっていきたい。」

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恩師である黒田先生とのツーショット

 

さいごー切っても切り離せない、唯一無二の存在

 日本で育ち、多くを経験した学生時代から、台湾での兵役生活を選択。台湾人でありながら、日本での生活は困難もあっただろうが、それを感じさせないほどのバイタリティが幼少期からあった。年齢を重ねても、自分のしたいことに忠実に生きてきた。

 台湾での生活が、彼をサッカーの世界に再び引き戻した。黒田先生を含め、様々な出会いがサッカーや仕事への充実に寄与した。紆余曲折ありながらも、彼にとってサッカーは切っても切り離せない存在なのだろう。

 次なる活躍の場は、サッカー本場のドイツ。クラブの規模に関係なく、闘志あふれる姿でピッチを駆け巡り、チームに勝利をもたらしている姿が目に浮かぶ。