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どんな人にも経験という歴史がある。その経験を書き記すことで人類にとって少しでもプラスになれるものを書いています。

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名前を残す作品を手掛けたい。東京オリンピックと映画監督を目指す旅路の途中で 庄司周平(25)撮影技術会社

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■大学生のころから相談役

 大学時代のパソコン室のアルバイトの友人。メディア学科に所属。当時からスタジオ棟と呼ばれる、撮影機材等が揃う環境で映像制作に身を投じて来た。理路整然とした喋り口調の彼に私はパソコン、カメラの購入など様々な相談をしていた。 今回のインタビューも普段の彼が滲み出た。卒業から現在までの濃厚な4年間を語ってくれた。

 

■スタジオマン。仕事としてのカメラの基礎を習得

 卒業以降3回転職している。大きくは仕事内容や、やってることは変わらない。1社目はスタジオマン。写真がメインの会社で、モデル、宝石、商品カタログの物撮り写真などを手掛ける会社。入社後は、会社に所属するプロのアシスタントからスタート。連日、営業時間が過ぎても一人残り、撮影したり、カメラの勉強に時間を費やした。

 カメラマンが撮影し終えた機材の片づけをするのも仕事のひとつ。ある日、カメラマンが帰り、彼ひとりになると、いつも通り練習していた。その時は、プロが使っていた機材を使い、照明や背景、レンズも自分の好みに変更。何枚か商品を撮ったそうだ。その時は、自分のデータを消さずにわざと取引先の納品に混ぜて出荷。

 後日、出来上がったカタログを見ると彼の撮った写真が載っていた。「誰がやったんだ?」と聞かれ「はい!」と手をあげた。怒られなかったのか聞くと、「勝手に混ぜるな。とだけ言われた。(笑)」

 それが功を奏して、「お前、撮れるしやってみろ。」と認められ以降、カメラマンとして写真撮影を任されることになった。入社から半年の出来事である。

  そこでの経験が、自分で撮るうえでの基礎を育んだ。「特に、色温に関して。情景と色を結びつけろと常々言われていた。現在は、テレビマンだけどその言葉が今も生きてる。」それまで写真撮るのが好きだったが、写真に対する意識が変わった。

 卒業年度の1月くらいから研修し、丸1年で退社を決意した。理由は、在学時代、テレビやゼミでジャーナリズムの勉強をし、その傍ら学校が構えるスタジオ棟での実習をしていたのもあり、テレビ業界に興味があったことが要因だった。1年ではあるが、カメラの基礎を叩き込み、これからも日々極めていけば、カメラは形になるだろうな考えた。

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■軽井沢スキーバス転落事故~小池都知事率いる都民ファースト圧勝までの一年半

 2016年1月から某テレビ局に就職。報道部に在籍した。最初の仕事はクラブツーリズムが運営するスキーバス事故。起床し立てで、そのまま撮りに行った。それまで、写真業界でカメラマンとして仕事をしていたが、映像業界に入れば一からやりなおし。アシスタントからのスタート。蹴られ、殴られ、暴言も浴びた。「何しに来たんだよ。とか、邪魔だからいらねー、帰れ。はやくしろよ。なんかは日常茶飯事だった。」彼はなにをされても、言われても、「口答えは一切しなかった。ずっと従い、はい。すいませんでした。って言っていた。」テレビ局入社、半年間は生傷が絶えなかったそうだ。

  職場に寝泊まりし、連日連夜社内には記者たちが待機し、速報が流れれば記者たちは即座に現場に向かう。その間も、フロアには無線などで世界各国の通信社からの情報が飛び交う。忙しさの中でも、報道の楽しさを感じる瞬間もあった。「テレビに流れる前のニュースを自分が知ることをできる。世界の最先端にいる感覚だった。」安倍首相、日露首脳会談や、熊本の震災、銀座シックスのプレスなどに報道としてマイクを向け現場を飛び回った。

 しかし、その思いだけでは続けることはできず、日に日に心身共に疲弊していった。テレビ局を辞めた理由は、「人間扱いされないし、朝は早く、夜は遅い。他局との喧嘩もザラだった。仕事量に対しての給料も良くなかった。」入社から1年半経った、2017年の7月まで働いた。当時は、小池都知事率いる都民ファーストの会が都議選で圧勝した頃だった。

 当時を振り返り、「報道の経験はかなり重宝している。忍耐力はもちろんのこと、生活サイクル、寝れないからしんどいとか全然思わない。」退職から1か月間は、1年半分を思う存分、休んだ。京都に旅行に行き、フェスやライブで休息を取った。

 

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テレビ局にいた時の取材現場の様子

■力試し、半年間のフリーカメラマン

 2017年8月からフリーカメラマンとして働く。理由は「力試しの意味で一回やってみたかった。自分が本気で営業したらどれくらい稼げるのか試したかった。」フリーの期間は半年と決めた。テレビ局の時に繋がった取材先や、カメラの時の先輩から仕事をもらい最初は月10万円程。自らも営業し、飲食店に入っては頃合いを見て、「メニュー用などの写真撮ります?」と声をかけたりもした。雑誌の撮影のカメアシで働いた際も、カメラマンに「もし、なんかあった際は仕事しますのでお願いします。」と顔と技術を宣伝した。気づけば、8月には30万円稼いでいた。充実した時間を送ることができた。「めっちゃ稼いでやろうと意気込んだ月は50万円入ったこともある。」

 フリーでの仕事をやっていくうちに、でかい企業との仕事も入るようになり、「月、撮影を〇件お願いしたいと言われた。」それ以外にも、食べログの料理写真、各種雑誌や媒体の撮影など多岐に渡って仕事をこなした。

 いつでも休め、収入も安定してきた秋口にこのままではダメになると危機感を感じた。「大卒3年程度でフリーで働いて、稼いでいたら社会的にはダメじゃないかも知れないけど、自分的にはダメになると思った。このまま、フリーで60歳、80歳になった時遊び人になる。それは浅いなと俺は思った。」そこで足を止めて、自分にとって満足の行く収入を得る方法であったが、自分の深みを得たいと思ったのかも知れない。

 「テレビ局などの激しい現場を早々に退いて、目の前のお金だけを取りに行くのは好きじゃない。たかが3年の現場経験しかないのに、撮影技術について無知な人を騙しているような感覚になったんだよね。それに、まだ先がある。知らない機材、CMや映画、ドラマもまだ撮ったこともない。知らない仕事だらけの状態で堂々とカメラマンは名乗れない。それは俺が一番嫌いなタイプ。」

 その思いがある中で、ダラダラ働くのはダメだ。取引先には、秋ぐらいにフリーを辞めることを告げ、後任のカメラマンの紹介もし、予定通り半年後、翌年3月でフリーカメラマンを退いた。

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個展を開いた時の作品。


 

■手がけた作品に名前を残す

 今年の4月からは、撮影技術会社に就職。カメラマンや音声マンが所属している。技術会社は映像制作の際に現場に撮影技術者を派遣する会社で仕事の幅が広い。映画、CM、ロケ、ライブ、コンサート、企業PVなど様々な仕事を扱う。「撮り方の仕組みはわかるけど、番組を作る現場を知らない。やりたいなと思った。」また、映像制作の世界に転向したのは残したい。という強い思いがある。

 「フリーでやってたときは、名前が残るものがない。報道や雑誌も同じ。その点、制作物は載る。テレビ番組にはスタッフロール。映画ではエンドロール。その業界で、名前残したいと思った。それまではやってきても、名前が載らないからやってきたことを証明をできなかった。」すでに、番組サイトやエンドロールにも名前が載る番組もあるようだ。

 「目標は、東京オリンピックで自分の名前で残すこと。その可能性が高い会社だから、当分は続けると思う。機材や、仕事の幅も広いからすぐに辞めるのはもったいない環境。」と今後の指針を話してくれた。

 

■どこに行っても勉強の連続

 「どこに行っても勉強の繰り返し。最初の会社やフリーの時もそう。知らないことがあればすぐに調べる癖は大学時代に身についた。」大学時代で勉強の仕方を身に付けた。「裏を取らないと嫌になった。高校は曖昧のままで知ったつもりになっていた。」

 大学のゼミの先生がロジカルに話し、考える先生だった。今も定期的に先生と飲みに行っているそうだ。その先生から仕組みを理解してから使うことの重要性を学んだ。「機材をわからないまま使う、知らないまま使うのが怖い。扱えるところが限定されていると、それ以上の範囲が来た時に対応ができなくなる。」

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大学時代の友人。舞台俳優として活動している。



 ■これだと決めたら極める

 1つ決めたら極めたい性分。「元々、カメラマンになる気がなかった。本当は、やめたいんだけど、極めたい。」まわりからは好きなことをしている代表として見られるが、実際のところはそうではないと話す。

 大学時代はラジオ局でラジオを制作をしたいと常々聞いていた。就職活動やインターンなどもラジオで絞っていたのを見ていた。しかし、採用されることが無く、「これだけ採用されないんじゃ諦めよう。自分が人よりちょっとできそうな仕事はなんだろう。」と考えた時に、カメラを仕事にしていくことを決めた。「一番仕事にしたくなかった。趣味のままでいたかった。でも、自分で決めたし、中途半端にやめたくないなというのがある。」

  今はファインダーを覗かずに手元と被写体の距離だけで、ピントを合わせる練習をしている。もし、今ラジオ局からオファーがあったらどうするのか聞いてみると、「ラジオの仕事が来ても断る。またカメラマンとして中途半端だし、自信をつけたい。」と答えた。 

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自宅部屋での一枚。ロールを敷き、好きなお酒に囲まれて


 

■閻魔大王が居るのなら、やってきたことをウザいと言われるぐらい語りたい

 産まれて死ぬまで約80年。死ぬ間際になり、なにも手に残ってないのが嫌だと語る。「死んであの世に行ったときに、もし閻魔大王がいたら、生きてる間になにをしたのかたくさん説明して、もう結構と言われたい。それに人と会って、それまでになにをしてきたのか答えられないのも嫌。後ろめたさがあると自信もって答えられないと思う。」今はお金も大事だが、誇りとか名誉がほしいそうだ。表彰もされたいが、他者からではなく自分の中から湧き上がる根拠のある自信を欲しがっている。「今も自信は持ちながらやっているけど、誇れることがしたい。その、自信を付けるにも、裏付けや根拠が欲しい。」

 

■最終的には映画監督

 「今俺に作風とかなにもない。」今は働きながらインプットとアウトプットの両立をしながら、自分の作風を作る事に注力している。「撮れちゃいました。のような、奇跡の一枚が好きじゃない。機材選びや、シチュエーション、スキルを持って自分で決断した結果、これをいつでも撮れますよ。と言いたい。ネームバリューだけで仕事を取るのは嫌。」なにを使えばどう仕上がるのかを知るのが最低条件。そこから、自ら提案をしていくのがこれからの理想。とした。最終的には映画を作るのが夢だそうだが、まだまだ道が長いっすわ。と締めくくった。

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本川越駅で別れの一枚

■さいごーやるならちゃんと続けてね

 インタビューが一通り終わり、川越の居酒屋に行ったとき、「やるならちゃんとやってね。何かを始めても続かない人が多いし、意地でも続けて欲しい。」曜日を決めるなら絶対にその日にアップする。記事の書き方のフォーマットを決めたならそれを守る等。まだ始まってこのブログも2ヶ月程だが、辞める気はサラサラ無いが、友人から今一度言われると、気が引き締まった。

 在学中もよく話、SNSでも仕事の状況をなんとなく知っていたが、一見すると夢のようなオリンピックを残すことと、映画監督。着実に知識と経験を携えてる現在を見れた。オリンピックの楽しみがスポーツマンだけではない、残す人を見る楽しみも増えた。